border

 たしか私が小学4年生ぐらいまで、学校の机や椅子は無垢の木でできたものを使っていた。記憶が正しければ、それらの木製机は2人用の長いものだった。その机に女の子と男の子、2人1組で並んで授業を受けていた。
 いま小学校の机や椅子といえば、スチールパイプ製で、天板が合成樹脂仕上げの合板の机と、座面と背もたれがプレスで曲げられた合板の椅子、というのが一般的だ。5年生で初めて使うことになった、このニュータイプの机は、しかし1人用の味気ないものになってしまった。
 2人掛けの長机では女子と男子の日々の攻防戦があった。隣りあった女子男子は、ことあるごとに口論をしては小突きあい、果ては机の真ん中あたりに鉛筆や油性ペンなんかで境界線が(なかには境界線が彫刻刀で掘られた机もあった)を引かれてしまう。肘やら消しゴムなんかがその線からはみ出そうものなら、「この線から絶対に、はみ出ないで」なんて女の子に恐ろしい顔をされたものだ。
 2010年4月10日(土)の+night、Sinéad O'Donnell + 増山士郎「Motherland Lost in Translation」は、blanClassの部屋の真ん中を床から壁、壁から天井へと黒い布ガムテープの境界線で真っ二つに仕切るところから始った。
 聞くところによると、プライベートでもパートナーのSinéad O'Donnellと増山士郎の2人は、日本に滞在しているときに限るという前置きをして、プライベートの共有スペースを同じように境界線で仕切って、おたがいが浸食し合わないように生活をしていると言う。(どちらかというと、増山くんがシネイドの領域を占領することを阻止するために生まれた苦肉の策らしいのだが…。)
 今回のコラボレーションでは、そうしたプライベートとパブリックの曖昧な境界線上で繰り広げられる、女子と男子の攻防戦が、1組の男女の身体と観客との曖昧な境界線の前で展開された。
 パフォーマンスの間中、私は小学生のころに机に引かれたborderのことを思い出していた。スライドトークのときにシネイドは日本の一般的な男女のあり方がオーソドックスな関係だとぼやいていたが、考えてみると、小学生のころの女男子の関係は「結構平等だったなぁー」と懐かしく思った。それが思春期あたりから徐々にコンサバティブな男女の関係にスルスルと変化し収まっていく。そんな気がする。
 そもそもSinéad O'Donnellの作品には常に境界線が現れる。それはルーマニアハンガリーの間やルーマニアモルドバの間にある国境線から、男と女の境目、プライベートとパブリックの間、インターナショナルとドメスティック、アーティストの身体と観客の間、さらにそれらが一様にわけられる図式ではなく、国や民族、宗教などによる文化間のズレが起こっていることを問題に作品を展開している。
 母国や母語という言葉があるが、自分の拠点やコミュニティーが固定していて、なおかつ安定していれば、内と外は明確にわけられ、大半のものがありふれた情景に満たされている。しかしひとたび立ち位置がズレると、あたり前のことがあたり前ではなくなり、ちょっとしたことでもコミュニケート不能な状態に陥ってしまうのが人間というものらしい。国家間や宗教間の問題もさることながら、20世紀の初頭に始まった、民族間の軋轢は現在でも治まりがついていないのが現状なのだ。まさに私たちは「Lost in Translation」の世界に住まっている。
 ダブリンに生まれ、北アイルランドに居を構える作家にとっては至極当然の問題提起なのだろう。よくよく考えるとどんな線引きも、実は曖昧で、根拠のわからない理由で区別され分類されているのだから。


こばやしはるお