2010年1月16日に収録した眞島竜男公開インタビュー全4回の第4弾(完)を掲載します。
ホームとアウェイ
小林:Bゼミのサマーセッションで「北京行」というパフォーマンスに近いものを見ていたせいもあって、僕の方ではこの+nightという企画の中で眞島君に「なにかやってください」っていうのは、そんなに違和感がなかったんですが、今日のパフォーマンスっていうのは、あまりいつものやりかたではないですよね。
眞島:そうですね。パフォーマンスの作品ということで言えば『北京行』の次、2回目ですね。
小林:すごく素朴な質問ですけど、やってみてどうだったでしょうか?
眞島:えぇっと、どうだったんだろうか?(笑)それは見た人に感想を言ってもらえばいいのかな。「ずいぶん静かだったから退屈してたのかなぁ」とか「滑舌悪いからどんどん喋りが遅くなってくなぁ」とか思いながら一生懸命やってました! 楽しかったです!
客K:面白かったです。
小林:なにか感想なり質問なり皆さんのほうからありますでしょうか?
眞島:何でも答えます。
客K:タオルの件は?
眞島:あぁ、これ?これは前半と後半を繋ぐためのもの。ちょっと役割が変わるもの。
客K:私はなんか話を最初から全部信じていて、本当にあったことなんだと思って…。
眞島:いや、全部本当にあったことなんですよ。私はそういうものとして作ってるんです。
客K:ずーっと信じていて、うんちの話とかもそういうふうに昔の人は思って素直に日記に書いたものなんだなとか思ったりして(笑)。しかも土俵だとは思わなくてですね、始まる前にちらっと見た時に、あぁ今日はなにをやるんだろうと思いましたが、始まっていくうちに最初なんか帽子とかストールだけ見たらメキシコみたいな雰囲気がある。
眞島:この帽子は私が普段使っている帽子で、混乱を招くかなぁと思いつつ、被ってないと落ち着かないんで被ってるんです。
客K:なんかその電飾とか、タオルの明るい柄とかも昔の話とはちがうと思ってたんですけど、麗子の絵を描いているときに「布が綺麗なのがあったらよかった」とか聞いていると、その布、なんか明るい色をまとっているのもあんまり無関係に思えなくなってきたり、その最初の話で下の電気だけついてるからその最初の話は家庭内の話が多くて、あぁなんかもしかしてこれって眞島さんの言っていることがお父さんのつぶやきみたいな話にすごい聞こえてきたから、電飾が家庭内の枠みたいに見えてきて、それがその京都に行って上だけの電飾になって、あぁ外側に行ったお父さんの話に舞台も変わったように見えました。私は。
眞島:あぁ、なるほど。素敵な見方をしてもらえたようで嬉しいです。炬燵とかね、冬だから。1月だしね。
小林:まぁでもホームとアウェイの話だよね。
眞島:うんうん、完全にそうですね。後半に出てきた、1929年に劉生が神戸の甲東園、宝塚のちょっと上にあるところに画会をしに出かけていくっていうのは本当にあった話です。「画会」っていうのは大きく2つの意味があって、いわゆる「○○画会」みたいな、皆で集まって絵を展示したり発表したりするっていうのと、もう一つは画家がお金を稼ぐために開催するもので、絵を買ってもらったり図録を作って売ったりする、まぁ、要するに営業ですね。後半の「京都ボクシング」は蓁(しげる。劉生の妻)宛の手紙からかなりサンプリングしているんですが、手紙からは日々のリアルな暮らし振りは分からないし、日記も残ってないので、そこは創作しました。
さっき言った「ボクシングにうつつを抜かす」っていうイメージが自分の中でひっくり返った時に、今回の話はそれとは逆方向に動いていく物語なんだなって分かって、それでようやく書き始められたっていうのはありますね。だから、そういうふうな感じ、「お父さん」っていう感じに見てもらうと、すごく嬉しいですね。結構上手くいったかなぁと思って、ちょっとホッとしますけれど。
写真とテキストによるパフォーマンス
小林:ほかにありますか?
客I:2つお聞きしたいんですけど、1つ目は素朴なんですが、案内には「テキストと写真によるパフォーマンス」と書いてありまして、写真というのは谷中のパフォーマンスでは実際のイメージが使われたのでしょうか?
もう1つはセットが前半と後半で変わるということについて、今までお話ししてたように朗読の進行にしたがって、セットのかたちは変わらないのですが、その意味が移動するというのがとても面白いというか、醍醐味を味わいました。額縁の話も出てきましたが、その中にいる眞島さんが、「絵のない絵」というふうに感じながら聞いていました。そして先ほど視覚芸術を自分がやっているとおっしゃっていましたが、そのイメージや形というのはいわゆる視覚的なものを指しているのではないと受け取りました。そういったときのその視覚芸術の可能性について、眞島さんのお考えを聞きたいです。
眞島:まず写真に関しては、「写真を組み込めなかった」っていうのが正直なところです。写真のイメージはかなり考えてはいたんですよ。今思うとすごいバカバカしい感じがするんですが、京都の鴨川の橋の欄干に、あれは何て言うのかな? 言葉が出てきませんが、ドラゴンクエストのスライムみたいのがいっぱいくっついてるじゃないですか。最初、あれの写真を何枚も撮って、あるものは遠くから、あるものは近くから撮って、引き延ばしのサイズを変えて全部同じ大きさになるようにして飾りたいなと思ってたんです。それが何なのかというと、何の意味もないんですけど(笑)。それから、一番最初にあったイメージ、劉生が「ボクシングにうつつを抜かす」っていうイメージが、そもそも写真的だったんですね。「着物を着た劉生がこっちを振り返って立っていて、その後ろにボクシングのリングが光っているのを、若いお弟子さんか誰かが写真に撮る」っていう、すごく写真的なイメージだったんです。だから、写真とテキストっていう形でいくんだろうなと思ったんですが、なかなか写真を作品に入れていけなかったというのが実際のところです。
今回の内容について、小林さんから簡単な紹介の文章を書いてくれって言われた時に、最初は「テキストと写真と照明によるパフォーマンス」と書いたんです。その後で、「照明を削ってください」とお願いして「写真とテキストによるパフォーマンス」にしたんですけれど、作っていく間で捻れてしまったというか、ひっくり返ってしまったみたいなところがあって、それが写真に関して実際に起きたことです。
もう一つは形に関して、視覚芸術のテキストとイメージの関係の可能性っていう話でしたっけ?
小林:最初に形って言ったときに必ずしも見えるものだけじゃないと理解した。でも同時に視覚芸術家の自意識みたいな話もあったから、その辺はどうなんだ? という質問だったと思います。
眞島:ただ、何ていうかな、具体的な物から離れてしまった抽象的な「形」みたいなものを作っているわけでもないと思うんですよね。作品を作る時には、かなり具体的な形を考えている。土俵とか盆地とかは具体的なものだし、その具体的なものの中に入っていくというか、それを触ったりとかっていう感覚は、形自体ではないけれど形と共にある、そうんなふうに捉えているので。だから「共にある形」って言ったらいいのかな?
頭の中で生まれるイメージみたいなものと、それが入れられる受け皿っていうことではなくて、頭の中にあったり、こっち(床を指して)にあったりするんだけど、それとほぼ同じものが頭の中だったり、ここの場所にあったりする。「同時にある」っていうようなところで、視覚芸術、造形芸術というふうに考えているんですね。
可能性としては常にそれを考えているので、捉えどころがないと受け取られることもあるだろうし、逆に捉えどころがあり過ぎても困るところもあって、もちろん作品はある程度は捉えられる形をしていないと困るので、そこで常に駆け引きしているんです。
今回は、そこはスパッと分けられている作品だという気はしますね。特に、この装置の中に私自身が入っている、器として機能するような「額縁」の中に作者が入っているっていうのは、かなり分かりやすい図式だと思います。そういう状況を作った上で、器自体が前半と後半で役割がちょっと変わるという、そういう自由さを実現出来たかな?というふうに考えています。
大まかに言って、私はこういう順序で考えています。だから、作品としては視覚芸術、造形芸術の可能性として考えていますね。
ボクサー・オンリー・ゴー!
小林:一番最初にね、この話をしてたとき、眞島君はボクサーを呼ぶって言ってた(笑)。ボクサーを呼んでスパーリングするって言ってたんです。
眞島:それも本当にイメージなんですよ。「この場所にボクサーが二人いて、バシッバシッって殴り合ってたらすごいじゃない」っていう、本当それだけのイメージです。それこそ具体の村上三郎※みたいな、ああいうパフォーマンス。ハプニング的なイメージ。でも、実際にそれをやると「ボクサーを呼ぶだけでいいよね」ってことになる。それもまた難しいところで、それでいいような気もするし、それではよくないような気もするし、どうなんだろうと考えた時に、やっぱりテキストっていうのが私にとって役に立つツールなのは確かなんですよね。ただ、やっぱりテキストは抽象的なもので、言い方を変えればイラストレーションになってしまう可能性が非常に強い。説明で終わってしまう、説明出来てしまう。そういう説明からはみ出るものとして、ボクサーが殴り合って「ビシッビシッ」っていうのは、やっぱり物の出す音ですから。「文章を書くことで劉生に経験させたものを再び文章として読み上げる」っていうのは、かなり回りくどいやり方だとは思うんですよね。そもそもの発端がボクサーで「ボクサー・オンリー・ゴー!」みたいな感じだったら、本当にボクサーを呼んできたと思います。でもその時に、ボクサーのイメージを引き出したのはやっぱり劉生なんですよね。私の中では常にそういう順序で作品は進んでいくので、それが面倒臭いような楽しいような、そんな感じです。非常にアンビバレントな…。
※具体的には、村上三郎の「紙破り」のパフォーマンスを念頭に置いている。
小林:思考していくプロセスみたいなことがね。
眞島:こんな感じで答えになったでしょうか?
客I:ありがとうございます。
小林:写真も最近撮り始めていて、えーっとブローニー?
眞島:うん、ブローニー。あの、さっきの梅原の北京日記の東京バージョン、あれも正方形の6×6で撮っているから興奮してるんじゃないかな。なんかね、憧れているというのとはちょっと違うんだけど、均等なものに惹かれるんです。「4」とか「2」とかってすごいゾクゾクして、「22」とか聞くと意味もなく興奮するんですよ。そういう性癖はあります(笑)。
小林:その写真もなかなかいいんですよ。
ほかに質問はあるでしょうか? なければそろそろ時間も時間なので、公開インタビューはこれでお開きにして、まだお時間のある方は個人的に質問してください。眞島竜男さんでした。ありがとうございます。(拍手)
完
編集責任:小林晴夫(こばやしはるお)/眞島竜男(まじまたつお)
インタビューの内容をほぼ全文掲載していますが、読みやすいよう、内容が損なわれない程度に加筆編集を加えてあります。