池宮中夫@blanClass 2

池宮中夫 巨大な僻地/意図と糸
 7月の晦日におこなわれた+night池宮中夫 [Wust 我々の巨大な僻地] は、圧巻だった。その前の週のステューデント・ナイトでもその興奮を書いたが、まったく違った意味で興奮した。かつて、池宮中夫の所属するDance Company Nomade〜sを評して「奇怪だ」と書いたことがあるが、ますます磨きがかかっているようだ。これが感情をうまくコントロールできる人間ならば、もう少し冷静に、一歩引いて分析もするのだろうが、私はいたって感情的な人間だから、思わず感涙してしまう。ノマド〜Sの池宮さんと熊谷さんには8年前にさんざん迷惑をかけてしまったから、今回の池宮さんの熱意にはどうしたって打たれてしまう。
 池宮中夫のソロダンスを見たのはこれが2度目になるが、今回の作品は印象が違った。本番後の公開インタビューでも、翌日のプライベートトークでも話題になったのだが、彼が美術作品を発表していたころの、1980年代の日本の美術状況を彷彿とさせるものがあった。
 私が現代美術を自分の足で探索しはじめたのは1984年の春からのこと。当時16歳の私にBゼミから与えられた、はじめての仕事がBゼミのリーフレット(たぶんサマーセッション)配りだったことも関係があるのだが、所長は「ギャラリーまわりをしろ」と言うだけで、それ以上なにも教えてくれない。といっても、それがあたり前のことで、当時の私はなにも疑問に思わなかった。前知識はなにもなかったから、「美手帖」とか、「ぴあ」とかに載っているすべての画廊をとりあえずまわった。ほとんどの画廊は銀座や神田周辺に集中していたが、中央線沿線、井の頭線沿線、池袋、新宿、代々木、恵比寿、渋谷、青山、六本木、赤坂方面にもちらほらと画廊があった。3〜4回はそのルーティンを愚直に繰り返したのだが、そのうちまわるべき画廊と、まわる必要のない画廊の選別を自ずとするようになった。
 チラシ配りばかりでなく、当時は月曜日に銀座に行けば、どこの画廊でもオープニングパーティーをやっていて、たいがいの美術界の人々に会えたものだった。その80年代半ば数年に渡って巡ったギャラリーの個展などが、いうなれば日本のニューウェーブシーンの最終章といったものだった。
 ニューウェーブといっても一様ではない。たとえば、ネオ・フォーマリズムと言ったらいいか? それぞれの作家が拠点とする形式を原理的に再考する作家たちや、感情や表現主義的な問題をポジティブに捉えなおして形象化するといった作家たち、それとも似て、プリミティブで有機的な形を手がかりに仕事をする作家たち、ほかにも彫刻や絵画に隣接するほかの形式が抱えている問題を積極的に取り込もうとする作家や、さらに問題を個人からパブリックに移行させるような動きもはじまっていたように思う。
 なにかざっくりと80年代のことを書いてしまったが、ひとまとめに言い切れるものでもない。しかし思い返すとある情景が浮かぶのだ。そういう80年代の情景を池宮中夫の表現を見ながら思い出した。それはその前の時代の表現というものを後ろに控えた情景でもある。
 事実、池宮中夫は当時、美術作品を発表していたのだそうだ。インタビューでは、チョコレートを塗りたくった、はしごの作品の話をしてくれた。食べたくても食べられないし、昇りたくてもベトベトいていて昇れないはしご。そういう美術作品をつくり、発表していた経験が彼のパフォーマンスのバックグラウンドになっている。
 今回の池宮作品でも、装置や小道具とは言い切れないような、ものものが登場した。彼は若いころにつくっていた作品も今回インスタレートした作品も自身の行為とともに、それらが移ろいでしまうことを指摘している。どんな意図を込めて作為しても、ひとつの価値を受け持った「作品=もの」として定着してくれないということだ。池宮の表現においては、身体とものがそうやすやすとは区別できないものなのだろう。
 そういう仕事をソロダンスと言ってしまうのはもったいないような気がする。劇場やギャラリーなどの箱が規定してしまう形式では収まらない自由な姿勢がそこにはあるのだ。


 こばやしはるお