飯島 剛哉 [Wallpapers]/渡邊 聖子[石の娘]

今週の+night↓
http://blanclass.com/_night/archives/2938

2010年9月4日(土)

飯島 剛哉 [Wallpapers]
壁紙をめくらない、めくるめくパフォーマンス。

渡邊 聖子[石の娘]
石の写真を撮る。石は石であること。写真は写真であること。石の写真は石の写真であること/ないこと。石の持ち込み歓迎します。

開場:18:00 開演:19:30
入場料;1,000円/学生:800円


 今月の+nightは、偶然にも写真をあつかう作家で網羅された。今週のゲストの飯島剛哉も立体やインスタレーションを中心に発表しているが、Bゼミ生だった頃から、独特な質感の写真作品も制作してきた。
 この人の作品は、その写真作品に感じる独特な質と共通の質を持っている。それは、どこかに打ち捨てられているようなもの。かつては堂々と機能していたのに、ときの流れに逆らえず、それなのにまだこの世のどこかに放置されているもの、意味や価値といったもの。
 使用済みの米軍のトーチカだったり、教会のライトボックス製の十字架内部のハラハラと明滅する蛍光灯だったり、何十年か前に確かにあった「月面着陸」とか「火星探査」というイメージや、映画「遊星からの物体X」などを頂点とするような、無数のスプラッターホラーやSFXが持っていた力などなど…。
 簡単に言うとヘビーメタルのメッキの部分。そのメッキが剥がれた状態のものを作品化している。そこから見えてくるのは本質だろうか? 現在進行形の価値とのリンクが期待される。
 渡邊聖子はまさに「写真」を問題にしている作家。昨年の横浜美術館でおこなわれた鈴木理策のワークショップ展「写真をつなげる 時間をつなげる」(2009年6月15日-21・横浜美術館アートギャラリー1)で彼女の作品をはじめて見た。
 クシャクシャに積み上げられたコピーの山や整然と置き放たれたものによって構成された展示だった。写真の展覧会にあって1人だけ浮いているといった感じだったが、本人は大まじめに「写真」という写し取られた「もの」や「意味」にアプローチしているのだ。
 そのインスタレーションを見て、私はフェルナン・レジェが1930年代初頭にコルビジェとともに南仏の別荘に引き込んで描いていた、一連のドローイングを思い出した。当時、写真に触発されていたレジェは、写真が撮ってしまう名前のつけ難い状況や状態をドローイングで掌握しようと格闘をしていたのだ。描かれた対象は、「はぎ取られた木の皮や根っこ」、「複雑な形の火打石」、「グチャグチャに重なった一対の手袋」など一見して何が描かれているかわからない代物を墨やガッシュをつかって執拗に描いている。それは20世紀に写真に写ってしまった、それまでの絵画に意味化されていなかったようなもの、写真が発見した抽象というものとの格闘だった。
 渡邊聖子の作品のなかに水色に着彩された水が入ったビーカーがあった。透明な水が写真に撮られると、うっすらと色づいてしまうことを思い出させてくれる作品だった。


こばやしはるお