暗い部屋が照らし出すもの

このところ彼は写真を撮るとは言わず、作ると言う。
自らシャッターを押さない制作活動を近年行っている写真家・秦雅則が、ブランクラスで[明ルイ部屋以降/超写実写真発表会]を開催している。

話は昨年11月、ここで行われた個展「目が見えない」に遡る。ウェブで集めた人間のパーツを接合させ作った中性的な子どもの写真が、透明なアクリルに挟まれ展示された。ブランクラスという実在の場所にたたずんでいるその子どもには、作家自らの画像も1ピクセルだけ埋め込んであり、自己と他者のハイブリッドなクローンのようにも見えた。

その際にディレクターの小林晴夫が秦の写真を「写実写真」と評した。どういうことかというと、彼の制作の過程は写真がそもそも持っている抽象性(写真には見ていたものの替わりに、見ていなかったものが写っていること)を削ぎ落とし、写真をより彼の捉える現実に近づける行為だと指摘したのだ。秦の今回の作品は、そのことへ対する返球でもあるようだ。具体的には、ブランクラスが選んだ本200冊のリストをもとに作家はグーグルで画像検索をかけ、得たイメージ群を、変形・接合し写真を作った。(モノによってはそのままのイメージのこともある)

ダリをモチーフにした作品がこの記事の下にもあるが、これを初めて見た時、妙な現実感を覚えた。裏返して着てしまったトレーナーの着心地が意外に良かった時のように。

通常、写真を撮る際に意識は自然とその被写体に向かい、定着される。写真にはなにものかが写っているが、それそのものを指しているかと言えば微妙に違う。そもそも私たちの目には、目の前の"それ"を現実にしようという意識があるが、写真には”それ”を現実に似せようという機構がある。二つの作用は似ているようで圧倒的に異なっているがゆえに、写真を見る=写真の上で現実を想起する際にはずれを感じる。この写真特有の感覚が、秦の場合、視線が被写体ではなく、彼自身に向けられているがゆえに転倒する。写真は現実を主張し、目はそれを追認する。

写真が、自らの視覚が、そのままでは現実を全く違うものとして認識させてしまう。彼はその事実に直面し、誰の目に成り代わることなく(自分の目ですらも)写真そのものを現実化する道を選んだ。現在、グーグルに本のタイトルと著者名を入れると、秦の作品がヒットするようになっている。この事実は、写真が無邪気に押し進めてきたリアリズムを超え、リアルにより近づいたことの一端を示しているようでもある。

カメラ・オブスクラから逆に光を照射するように秦は現実を描く。暗い部屋の中にあるはずの光は既になく、彼がそこにいるかどうかは分からない。光は屈折を繰り返して外へ出ているようだが、その軌跡が彼自身と符合している。写真そのものは誰でもない。この当たり前の事実を踏まえた上で、それをなるべく自らに近づけようとする写真家=秦雅則の試行はこれからも続いていくだろう。

今週土曜日の+nightでは彼の写真についてはもちろん、東京・四谷三丁目に存在した「明るい部屋」についても話をしていくつもりだ。運営していた人・展示した人・見に来た人、多くの人間によって存在していた実像を、もう一度立ち上げてみたい。関わった方々にも是非お越し頂きたいと思っている。



みきよしかず