欠如と余計の使い途について|高嶋晋一

1.
もしも芸術が行為だったとして(行為そのものではないとしても、少なくとも行為から派生するものであるとして)、数多のプリミティヴな行為のなかで、どのようなきっかけから、それが峻別され浮上(ないしは沈殿)していくのだろうか。それは例えば、言語の習得や共同体の形成や貨幣の発生や武力の発展といったことと、なにがしかの連動性や相似性はないのだろうか。あるいは、社会における他の活動に比べ、芸術行為は有用でもなく機能的でもない、衣食住足りてはじめて可能になるような、補助的で傍系の位置にある余剰(余興)に過ぎないというのは、半分は本当だとしても、もう半分の別の側面がありはしないだろうか。すなわち、自分自身や誰かの生存と死滅に直結しないからこそ賭けるに値する行為というものは存在しないのだろうか?
ここでは、もっぱら芸術作品が見ること観賞されることに奉仕する対象でしかない、という現在のステイタスを一端外し、既存のジャンル区分のことなども括弧に入れて、行為という観点から考察を試みたい。とりわけ、ひとに見せることを前提としない行為。つまり「公共」という領域の基準が、「誰かが見ている」というその「誰か」が失われ、作り手(行なう側) - 受け手(見る側)の共犯関係が機能不全となっている場合の行為、について。


2.
例えば、鼻歌。誰かに聴かせるためでもなく、格別歌おうとして歌っているわけでもないのに、なぜだか聴こえてくる、誰が歌っているのでもないような歌。鼻歌が思わず口から溢れるとき、それは大概、身体が過度に疲労していることが多い。柳田國男はもともと歌と仕事とは別々のものではなく「多くの仕事は歌って働かずに居られなかった」と『鼻唄考』で書いている。
その場合、仕事と歌とは調和的/相補的な関係にあるのではなく、一方が他方に対して分離的/隣接的に働いている。つまり、自分自身を苦痛に満ちた身体から、あるいは現に存在していることから逸らすような効果がある。やや大仰に言えば、鼻歌は、声に乗ることで声に伴って抜け出そうとする、という幽体離脱に似た力を潜在的に内包している(蛇足だが、思考停止に近い状態で自分自身を失っている者であればあるほど、それを外から見ると自分自身に埋没していて「内向的」で「個人的」に見える、という逆説があるのではなかろうか)。
美術史家のE・H・ゴンブリッチは『棒馬、あるいは芸術形式の根源についての考察』のなかで、言語(表現)の起源について「ニャム=ニャム理論」という興味深い仮説を提示している。「ニャム、ニャム」とは、「原始時代の狩人が冬のいく夜も目覚めたまま空腹の身を横たえながら、食べるときの音を立てているさま」であり、腹を満たす食事の代わりの行為である。本来なら代わりが立たないことの代わりを見出す術。表現の形成過程の核心を、伝達行為(コミュニケーション)ではなく代理行為に求めた点で、この論は今なお示唆に富んでいる。
その前提は欠如にあり、「腹が減る→飯を食う」という通常の因果回路は閉鎖され、代替案ないし迂回的解決を捻出するより他に道はない。というより、そのときはじめて「飢える」という全体の欠如を感知する能力が発動される。つまりニャムニャムは「ないものをあらしめる行為」であり、対し鼻歌は「あるものをなくする行為」、否認の行為であり、全体(という過剰さ)に無頓着でいられる能力を稼働させる。行為としての芸術の原型をこの二つの例に求めるとすれば、衣食住の用と乖離しているのは当然で、そもそもそれは、衣食住が破綻したときに顕現する、極限的な用(機能、ファンクション)だったのである。
この特異な技術(ないし呪術)は人知れず伝播していくが、それを「共有」と看做しうるような観点は実のところありえない。なぜならそれは、万人に共有される普遍的な価値など存在せず、かといって、開き直って個人的な価値に耽溺することもまた不可能な状況においてのみ、用をなす行為であるからだ。すべきことを一切与えられておらず何かを選択することもできず、未来を変革しうるようなあらゆる行動、社会に組みし自分を位置づけてくれるようなあらゆる行動が断念されているときに、それでも何かしようとする場合、人は何を為すのか? それは「私の痛みだけが実在のものだ(≒私は私の痛みを感じる)」と言うことも、「すべての人の痛みが実在のものだ(≒二人の人は同じ痛みを感じることができない)」と言うことも、共にナンセンスである地点で、なおかつ発話しようとするようなものだろう。だが、誰に向かって?


3.
フランツ・カフカの短編『断食芸人』。この小説に出てくる「断食芸」には極めてコンセプチュアルな設定があり、パフォーマンスとしての先見性をもっている。まず、何かをすることではなく、しないことを見せる、という点。種も仕掛けもなく、誰にでも為しうることを「芸」とする点。そして、断食という行為が芸であるかぎりは見世物であり、誰かに見られることでしかその正当性を確保できない一方で、本当にごまかしなく遂行されたかどうか確かめることができるのは、パフォーマーである断食芸人本人だけである、という点、など。さらに特筆すべきは、その断食の理由である。彼は修行のような禁欲から断食を行なったのでもなく、断食が苦痛であったわけでもない。その理由は単に「自分の口に合う食べ物が見つけられなかった」からである。
例えば、腕が折れ、利き手が使えない状態で服を着ようとする、そこではじめて「あたりまえのこと」が意識化される、というロジックがある。だがこうした欠如による操作は、あくまで現に在ることを知るために、それを基点にしか扱えない。しかしもしも、このあたりまえの状態にこそ過剰を感じているのだとしたら、どうだろう(例えば腕が二本あることが、余計で余分であると捉えているとしたら?)。他の人々にとっては「食べない」ことは欠如でしかないが、断食芸人にとっては「食べる」こと自体が過剰であった。この二つの「あたりまえのこと」は決して合致することはない。一方は他方を「腕を失った人間」のようにしか見ることができず、決して「もともと腕がない人間」として理解することはできないのだ。
複数の「あたりまえ」が存在するという事実は何かしら不穏さを帯びている。例えばある種のことわざを列挙してみるといい。雨の降る日は天気が悪い。犬が東向けば尾が西向く。猫が肥えれば鰹節が痩せる。蛙の子は蛙。どこの烏も黒い。鶏は皆裸足だ。山より大きな猪は出ない。役者は役者の中から出る。田があれば畠がある。泣く子もあれば笑う子もある。目は二つ鼻は一つ。面は顔。背中に眼はない。芥子は辛くて砂糖は甘い。これらを総じて「たとえ話」と受け取り、「あたりまえの話だ」と抽象できるのは、決してあたりまえのことではない。
何にも代えられないはずの「あたりまえ」こそが一つの観念である、ということ。代わりが立たないことの代わりを見出すという呪術を始終行使していると、何かの代わりであることが忘却されたり、代わりでないものが代わりになったり、代わりであったはずのものが実現と変わりなくなったり、代わりが独立し別の力を持ったり、という副作用が多々生じる。例えば、ある食べ物の代わりに別の食べ物をみつける。赤ん坊にとって、誰かの指をくわえることと自分の指をくわえること、足の指と手の指とに区別はない。すべてを口によって咀嚼するうちに、食べること自体の代わりをみつけるということも起こりうる(「喋る」は「食べる」の迂回案だったのかもしれない)。
断食芸人は、断食という生から抜け出そうとする行為によって、かろうじて生きつづけるための力を得ていた。そしてこの逆説的な均衡以外の「代わり」をみつけることを徹底的に拒絶する。彼がひたすら遂行しようと願うのは「それをするしかなく、それしか他にない」ところまで縮小された行為である。けれど、この断食芸人の芸術(呪術)批判はおそらく、芸術家像というもう一つの神話形成に寄与してしまう。ある行為が特権的に扱われ、生をまるごと被い尽くすと、「人生を芸術化する」と形容される別のレベルの行為として捉えられてしまうのである(断食芸人が決して、生という未確定で束の間の現象の側から、芸術の完結性や永続性を批判していたわけではないことに注意されたい。彼は餓死というカタストロフィを目的としたわけではなく、身体という物質的条件さえ許せば、いつまでも断食をつづけたであろう)。


4.
さて、「断食芸」という芸術(呪術)批判に行き着いたところで、もう一度鼻歌のような、ひとに見せることを前提としない行為に戻ってみよう。要するにそれは「ひとりごと」のようなものだろうか。「ひとりごと」は一人であるにもかかわらず対話性を帯びており、そこに着目すれば確かに鼻歌も同様の特徴を持っている。けれどむしろ、語りと違って身振りには人称がない、ということの方を強調したい。
身振りという行為においては「あなた/わたし」の区分よりも「される(受動)/する(能動)」の区分の方が基本となる。もちろんどちらにも「相手」はある。それこそ、自分と他人の姿の違いを認識していない段階でも、赤ん坊は泣いているとき「誰かが来た(何かが現われた)」とわかるだけで泣き止むらしい。そうした場合の「誰か」である。しかし語りには、自分の立ち位置と相手の立ち位置の違いを考慮するという「説明」がつきまとう(地図で現在地を確かめなければ歩き回れないようなものだ)。それに対し、行為の場合にはそのような距離をもった像としての「相手」、特に「自分」と同じ単位の「相手」の把握は必要ない。反応しうるというレベルでの「相手」があればよい。そこに自らを位置づける地図=全体像がなくとも、行為はすでに何がしかを束ねている。
例えば先のニャムニャムの洗練されたヴァージョンともいえるパントマイムは、「Xそのものを描くのではなく、Xに対する反応をX抜きですることによって、間接的にXを描く」という操作手続きを採る。つまり「ないのにあるふりをする(作用がないのに反作用する/反応がないのにリアクションする)」ものだが、その際、対で必要となるのは、動きにまつわるフィジカルな側面、重さや遮蔽といったものを「あるのにないふりをする」技術である。ここには「ある↔ない」の明快な対称が認められ、それが、相手がいるから反応をするのではなく、反応するから相手がある、という逆転を形づくる。
ということは、その可能性を拡張して捉えれば、通常なら誰も見る者がいないのにわざわざふりをしようとするのは、非合理的な行為(無駄手間)であり、蓋然的なものであるはずなのだが、むしろ誰も見ていないがゆえに、ふりをするというこの余計がしかし必然である、と考えることもできるのではないか。もっともパントマイムは、自身の反応をあらかじめ想定できれば、その対象が物体であろうが生物であろうが無形のものであろうが、分け隔てなく描くという利点がある反面、それらはすべて「そう見える」という現象に合わせて編成されてしまってもいる。「ある↔ない」という区分の変動の全面化によって捨象されるのは、反応には還元しえない質の差、「ある↔いる」の対称である。
では、「ある↔ない」の区分を「ふり」によって揺さぶりつつ、「ある↔いる」の位相に迫るためには、はたしてどのようなやり方があるのか。「断食芸」が「身振り=ふり=代わり」の呪術の反証でありつつも、その有力な参照項となるのは、この位相に関してである。カフカの断食芸人は、死を特権化せず、死を出口(解決ないし救済)とは見なさない。だが出口を塞ぐことでつくられるのは、逃れられない死のみが常に充満している状況である。「ふり」においてもこうした閉塞状況を意図的に徹底させることは可能である。「ふり」の徹底化とは、原理上ふりをすることができないような行為においてなお「ふり」をする、という命題であるだろう。それは例えば、次のような些細な経験がヒントになりうるかもしれない。
煙草を吸っているまさにそのさなかに「ああ、煙草が吸いたい」と思う。これは、コーヒーやガムなど他の嗜好品でも起こりうるかは定かではないが、「お腹がいっぱいなのにまだ食べたい」のとは明らかに異なる状況である(消化器系ではなく呼吸器系のものである点は意外に重要だ。後者は一端貯めておくということができない、つねに吸って吐くの反復である)。意識が実際している当の行為を忘れている。いわば、音楽を聴いていて「あれ? 最後まで聴いてなかった、もう一度聴こう」となるときの拡張版である。つまり「最後まで吸ってなかったのに、もう終わってしまった。もう一度吸おう」というケースは多々あるが、それが終わっていないときに起こる、ということだ。今していることをすでに思い出しているかのような(だがデジャヴのような懐かしさはない)、時制の錯誤。この錯誤はちょうど、ロードランナーを追いかけるコヨーテが、すでに地面がなくなっているのにまだあるものと思い込んで、脚をフル回転している状態のように、自らが依って立つ前提を失っているのにそれに気づかないという、事実と認識の落差から生じる。
「ふりをすることができないような行為においてなおふりをする」とは、「ふり」とその前提である「素」が、ふりをしているはずの当人によって取り違えられることであり、例えば「呼吸しないこと」の代案として「呼吸しても呼吸しても呼吸した気がしない」場面をつくりだすことである。あるかないかの差に比べれば無に等しい、死んでいるか生きているか(≒「ある↔いる」)の差は、こうした場面においてしか生じない。もしくはそれは、加速する動く歩道の上を歩いているかのように見せるパントマイムの最中、ふと「そもそも地面がない」と気づいた者が、脚をフル回転させる身振りをやってのけるようなものである。すなわち「ふり」の極限とは、「死体が死んだふりをすること」ないしは「生体が意識のあるふりをすること」にある。


5.
あってもなくてもいいのに、なぜか、あるもの。芸術とは、余剰であり余計である。しかしその余計は、ある欠如を前提としている。だが余剰は決してその欠如を補完することはない。あらゆる行為の総体をもってしても埋まらないのは、不可能だが欲されたこと、である。余計の力能はただ、あって当然とされているものを裏から浸食することである。この欠如と余計とが噛み合わない状態は、「はやく人間になりたい」と言う者の「人間」と、「もう人間をやめたい」と言う者の「人間」とが、ぴったりと重なり合うことはなく、どこかしらだぶついていることに似ている。それでも、「はやく人間になりたい」と言う者の「人間になる前」と、「もう人間をやめたい」と言う者の「人間をやめた後」とで、そこで得られるであろうものと失うであろうものに違いがあることが、一つの手がかりになるかもしれない。
行為としての芸術は「欲する、のなかの、知る」、つまり情動を伴う知である。亀の甲羅に驚嘆して魅入るのではなく、亀を食べたいと思う者の実践的な視点は、中立的で第三者的な(科学者の眼のような)ポジションを確保しうるものではない。けれどそこに迂回や代替が入るかぎり(つまり手段の自己目的化の可能性があるかぎり)、欲求(目的) - 実現(手段)の系それ自体を内在的に組み換えうるはずである。それは単なる当初の欲求(目的)からの逸脱というだけではない。
「水は、のどの乾きが教えてくれる」。では、のどの乾きは、何が教えてくれるのか? 欲求を「のどの乾き」といった生理学的なもの(生得的なもの)と限定して捉えずに、新たに組織しうるものと考えた場合、何ができるのか? 行為としての芸術は、まさしくこの問いをめぐって展開するだろう。だがそのためには、行為はいまだ行為者という偽の全体に波及せず、ただの行為である段階のままで留まらなくてはならない。「生」というタイムスパンがことごとく破壊され、そこから外れていなければ、これらの行為を拾い出すことなどできはしないだろうから。



たかしましんいち(アーティスト)



今週の+night↓
http://blanclass.com/japanese/


前後(高嶋 晋一+神村 恵)[ポジション・ダウトフル]


地面が 浮かんでいくからだを はねかえす。
からだが 落ちてくる地面を はねかえす。
はねっかえることだけが ゆいいつのつなぎ目。


けれど
手が離れる、なぜってもう壁はないんだから。
床が踏み外れる、なぜってもう足はないんだから。


見ることが ピン留めになるのは、
つかまるものが 何もないとき。
ふれていることが 何の保証にもならないとき。



日程:7月16日(土)
開演:18:30 開演:19:30
一般:1,500円/学生:1,300円


前後 Zen-go
2011年メーデーに結成。ユニット名は、空間の分節のみならず時間的な区別も同時に含意するという、日本語の「前後」の特異性に因む(front & back と before & afterを兼ね備える)。身体、物体、言葉を原材料とし、インプロヴィゼーションコンポジションの拮抗、ないし生存競争と相互扶助との消失点を建設する。


高嶋 晋一 Shinichi TAKASHIMA
美術家。78年東京生まれ。パフォーマンスやヴィデオによるインスタレーションなどを制作/発表。主な個展に「One foot on the moon」(05)、「These fallish things」(08)など(以上、GALLERY OBJECTIVE CORRELATIVE)。主なグループ展に「インターイメージとしての身体」(山口情報芸術センター、09)、「気象と終身ー寝違えの設置、麻痺による交通」(橋本聡との共同企画、アサヒアートスクエア、10)など。


神村 恵 Megumi KAMIMURA
ダンサー/振付家。幼少よりバレエを学ぶ。04年よりソロ作品を発表し始め、以来、国内外の様々な場所で公演を行っている。06年より神村恵カンパニーとしても活動を開始。10年7月、トヨタコレオグラフィーアワード2010にファイナリストとして出場。10年11月、シアターグリーンにてカンパニー新作公演「飛び地」を行う。08年より、実験ユニットのメンバーとしても活動。