前後(高嶋 晋一+神村 恵)[ポジション・ダウトフル]

 今週の+nightは、アーティストとダンサー(振付家)の異色ユニット「前後」(高嶋 晋一+神村 恵)が初登場!!
 双方の異なる形式にあって身体に対して同じような考え方を発見し実験する。blanClassにとって、とてもありがたい企画!!
 神村恵さんとは、「放送室」でお話しした日の打合わせではじめてお会いした。お話しの中で印象に残ったのは、ダンスが持っている「身体を使った感情表現」というステレオタイプに違和感があると言っていたこと。そういうステレオタイプはモダンダンス以降のダンスをあまり見たことのない人々が、なぜかしら持ってしまっているイメージだと思っていた。
 私がパフォーマンス、舞踏やダンスのことなどを講義などで触れると、ときたま、そういう反応があるからだ。身体の表現に拒否反応のようなものがあるらしく、「ものすごく退屈なやつでしょ」とか「情念的で気持ち悪いやつでしょ」とかいう質問がある。私はそうしたときに決まって「あぁ、じゃぁ、いろいろ見てるんだ、それで、どれのこと?」と聞いてみることにしている。この「パフォーマンス」のところを「現代美術」にしても「写真」にしても同じことなのだが、そういう質問や意見を投げかけてくる人は決まって「実は全然見たことがない」か「あまり見たことがない」ということになっている。
 見たことや経験したことがほとんど無いのにもかかわらず「印象」が存在することが恐ろしい。そしてそれ以上にその印象を信じているところがすごい。
 神村さんは、そうした「わからんちん」のことばかりを嘆いているだけでもないらしいが、ダンスといって、その形式が持っている価値の多様さは、今更言うまでもなく多義に渡っている。
 もうひとりの高嶋晋一は、閉じる間際のBゼミ生だったから、彼の若いころから知っている。ここのところ精力的に発表している彼の作品の発端になった作品もそのころからつくりはじめたと記憶している。それは自身の住むアパートで、自身の身体を物質のように無理に歪めて撮影されたビデオ作品だった。
 本人も認めているように、68年以降にニューヨークのアーティストたちがソニーのホームビデオに収めたプライベートムービーの影響が見られる。
 先人たちの表現は、彫刻の概念がアートの表舞台で、はじめて拡張されたその瞬間でもあるのだが、その時代、実はアーティストたちは日本で紹介されたカテゴリーよりも広くさまざまな形式や概念と拮抗し実験していた。
 高嶋が「放送室」で指摘していたように、ロバート・モリスやトリシア・ブラウンだけでなく、拡張された実験はジョン・ケージマース・カニングハムなどを中心にさまざまな形式やメディアを抱えたアーティストたちの共同作品を生み出していたのだ。
 高嶋は20世紀のアートにはまり込んで、エスカレートしているとも思えるロジックを持て余していた。そんな彼がはじめて素直に実践した表現が自らの身体との格闘だったという事実が面白いのだ。彼はビックリするぐらいの正論を平然と言ったかと思うと、言ったそばから反省をする。論理と生きている自分のあいだを行ったり来たりしているのだ。
 いうなれば高嶋にとっては自身の身体で発言をすることが、生きた思考であり、現実の世界に実学として機能するはずのチャンスでもあるということだろう。
 芸術言語バリバリの高嶋が不器用に自分の身体で発言をしていたら、隣の芝でダンサーが同じような問題を抱えて洗練した身体で問いかけている。それが神村恵さんだったというわけだ。
 ミニマリストに括って安心していたロバート・モリスが、その後の作品でホロコーストを鏡絵のように上下に描いた絵画作品に展開していたり、そもそもその活動の初期にダンスとコラボレーションしていたりと、ちっとも純粋でないことに気がついてみると、アートは決して閉じてはいないということを知る。
 私も若いころからたいして頭も良くないのに勘にまかせてディレクションなどしているから、さまざまな専門家にお会いする度に、まるっきり言葉が通じ合わないという事実に背筋が凍る思いを度ごとにし、現在の状況がきっとバベルの塔の崩壊直後なのだと思わざるを得ない。
 高嶋くんの恩師(私にとってもだが)、岡崎乾二郎氏は、いつだったか、バベルの塔が崩壊した後、すべての人同士が言葉が通じなくなって、聖書ではみんながワーっといって散り散りになったというが、本来ならそうなってはじめてコミュニケーションが生まれるはずだ、と言っていたが、私も深く同感する。


こばやしはるお


今週の+night↓
http://blanclass.com/japanese/


前後(高嶋 晋一+神村 恵)[ポジション・ダウトフル]


地面が 浮かんでいくからだを はねかえす。

からだが 落ちてくる地面を はねかえす。
はねっかえることだけが ゆいいつのつなぎ目。


けれど
手が離れる、なぜってもう壁はないんだから。
床が踏み外れる、なぜってもう足はないんだから。


見ることが ピン留めになるのは、
つかまるものが 何もないとき。
ふれていることが 何の保証にもならないとき。


日程:7月16日(土)
開演:18:30 開演:19:30
一般:1,500円/学生:1,300円


前後 Zen-go
2011年メーデーに結成。ユニット名は、空間の分節のみならず時間的な区別も同時に含意するという、日本語の「前後」の特異性に因む(front & back と before & afterを兼ね備える)。身体、物体、言葉を原材料とし、インプロヴィゼーションコンポジションの拮抗、ないし生存競争と相互扶助との消失点を建設する


高嶋 晋一 Shinichi TAKASHIMA
美術家。78年東京生まれ。パフォーマンスやヴィデオによるインスタレーションなどを制作/発表。主な個展に「One foot on the moon」(05)、「These fallish things」(08)など(以上、GALLERY OBJECTIVE CORRELATIVE)。主なグループ展に「インターイメージとしての身体」(山口情報芸術センター、09)、「気象と終身ー寝違えの設置、麻痺による交通」(橋本聡との共同企画、アサヒアートスクエア、10)など。


神村 恵 Megumi KAMIMURA
ダンサー/振付家。幼少よりバレエを学ぶ。04年よりソロ作品を発表し始め、以来、国内外の様々な場所で公演を行っている。06年より神村恵カンパニーとしても活動を開始。10年7月、トヨタコレオグラフィーアワード2010にファイナリストとして出場。10年11月、シアターグリーンにてカンパニー新作公演「飛び地」を行う。08年より、実験ユニットのメンバーとしても活動。