行きつ戻りつ、もしくはその間に

毎年1月になると、どこか落ち着かない心持ちになる。何年経ったっけと数字が頭の中で騒ぎ出す。

17年前の阪神大震災では、幸い家族に怪我はなく、家も倒壊を免れた。しかし辺りには傾いたり倒れた家が何軒もあって、まだ夢の中にいるようだった。何を思ったか、そのような状態で私は、学校に行かなきゃと思い立った。歩きだして2分、中学に近づくに従って異臭が漂い始める。裏門を乗り越えて中に入るとシューっという音と共に何かが吹き出している。ガスだ。給食の調理室から大量のガスが漏れ出して、周囲に立ちこめていた。近所に住んでいる先生が寝間着のような格好でウロウロしていて、なんで来たんや、早よ帰れと怒鳴る。そう言いながらも彼自身、成す術はなく困惑しているようだった。

先生、あなたはなぜあの時、あの場所にいたんですか。

時々流れてくるきな臭い匂いや尋ね人の筆跡、プラスティックのバケツに入った水の重さ。断片的に残るそれらの記憶がバラバラになり、また編集されて私の17年前は存在している。それでも、そこまで悲惨な記憶として認識されないのは、家族や家が無事だったせいもあるし、何よりも自分がその場所にいたからだと思う。毎日の生活を通して、劇的な変化と自分との間にある種のスケールが形成されていた。

間もなく東日本大震災から1年である。あの時ディスプレイの前で呻くしかなかった自分と、太平洋沿岸の大小の街々はあまりに遠かった。(実際は200kmそこらであるのに。)半年は身じろぎもできなかった。秋を過ぎてようやく朗読のボランティアに一度、見るために一度、被災した地域へ赴いた。私は医師でもないしジャーナリストでもない。労働をするつもりもない。責任も大義もない。なんで来たんだと言われるかもしれない。

私にとって必要です、と言うしかない。自分と繋がっていると感じたら人はどこへでも行く。距離感と現地に立った時の感覚が身に付いてきたら、別の行動が生まれるかもしれない。見渡す限り全てが失われた土地で、海と真新しい電柱だけが水平と垂直を成していた。私の中で生まれたばかりの新しいスケールの話である。


みきよしかず