骨を拾う

 もう十年は経つだろうか。母方の祖父が亡くなった時、二通の遺書と一箱の段ボールが遺された。遺書はそれぞれ彼の妻と子供に分配され、段ボールは私に遺された。正確を期せば、捨てられる直前だったそれに何となく親近感を感じ、自ら引き取ったのだ。

 (祖父の意思により)箱に入れられたものの9割5分は、黄ばんでしまった新聞の切り抜きである。残りは手書きのメモ、カラーグラビア、包装紙、神社のお札、歯のレントゲン写真など、とにかく雑多な紙たちだ。それら大量の紙片の上には「燃やすこと」と書かれた紙切れが乗っかっていた。正直、もらうんじゃなかったと思った。このカオスをどのように処理すればいいのか、本人ですら残しておきたくないと思っていたものに何の価値があるのか。部屋の隅で蠢く紙の寄せ集めが、ただでさえ小さな部屋をより暗く、狭くしているように感じた。

 数ヶ月間放置して、ようやくどうにかしなければと思い立った。埃にまみれながら(私の興味により)紙片を抜き出し、残りはばっさり捨てた。出来上がったのは、どこまでが祖父でどこからが自分なのかよく分からない、一冊のファイルだった。誰のものでもないそれは、徹底して役には立たなかったが、一つの方向を指差しているように思えた。

 身体や意思、思想など、中心だと思われていたものが消滅して、よく分からないものだけが遺される。残された者がそれを拾い集め、組み直す。いわば拾遺物語を編むことが、かろうじて現世に引っかかっている自分にできることではないだろうか。だから今日も風景を拾う。言葉を拾う。