金曜日/わが秘められた生涯・ダリ?|秦 雅則

私は、思いだしてしまった。過去に、超過去を欲し、現実に見てしまった超現実のことを。
思いだしてしまったからには、それを写真と私と貴方との窓口とするためにも話しておく必要があると思う。
私の秘められた経験/記憶について。そして、これからについて。


長々と書くのは面倒なので、抜粋する。
10年前、私は写真を撮り始めた。
10年前は、17歳ということになる。
まだ、高校生で馬鹿丸出しだった。
特に、取り柄もなかったが芸術には興味があった。
絵を描き始めてすぐのこと、悪友のK氏からダリ展に誘われる。
もちろん、タダだし。買い物ついでに観にいくことにした。
そこで、私はダリの絵画と写真を見ることになる。
絵はオモローなのに、写真は、キモかった。
それから、私は写真を始めることになる。
そして、10年。
私は、偶然にも超現実ならぬ、超写実写真の展示会をしている。


簡単に話しすぎかもしれないが、これが私が写真を始めるに至った流れだ。写真を初めてから、10年で分かったことは本当に沢山あるのだが、それは、多すぎて何から話していいのか分からない。なので、まずはなぜ写真なのかということについて考察していきたいと思っている。過去、私が経験/記憶したことが、現在に繋がっているということは当然の理屈であるはずなのに…注意しないといつも忘れてしまう。もう一度、思い出すところから始めたいと思う。
私は、なぜ写真を選んだのか?やはり、その鍵はダリ展にあるのだと考えている。あの時に見た、あのダリの写真(写真家フィリップ・ハルスマンがダリのデッサンを元に撮った写真)が私に与えた経験はなんだったのだろうか?少し、長くなってしまうかもしれないが、お暇な方はその考察にお付き合い頂きたい。まず、ダリの絵画は多重的イメージを使用し、自己投影のような/夢のような超現実的世界を写実的に描いたものというふうに言うことができるだろう。
そこでポイントなのは、1に写実的に描いているということ、2に超現実が夢や自己投影など内へ籠る作業をしているということだと思う。そして、写真作品の場合に生まれた違和感というのは、1に対して写真は写実的ではないということ。そして、2に対して写真は内へ籠る作業に向かないということなのではないだろうか。
写真が写実的ではなかったということに関しては、小林晴夫氏の「秦雅則/写実写真」を読んでもらいたいのだが、内へ籠る作業に向かないということはどういう事なのだろうか?絵画に出来て、写真に出来ないことがあるのだろうか…。…。…。少し考えてみたのだが、現代の写真においては、内に籠ることが向いていないという言葉は使えないと思った。絵画もその昔は内に籠ることには向かないと言われていた時代があったはずで、その時代を過ぎたからこその今があるのだろう。それと、同じように写真も現代においては内に籠ることに向かないということは無い。それは技術的/歴史的/精神的な成長の証でもあるのだろうと思う。そうなると、その過渡期に撮られたダリの写真において感じられる違和感は、ただの思春期の不安定さのようなものだということになる。そうだ、アレだ。あの足が伸びるのにともなって節が痛いとか、異性に興味を持ち始めるけどどう接していいかわからないとか。そういうアレだ。あの、思考と身体のバランスの悪さがうむ気持ちわるさなんだろう。だとしたら、過去には出来なかった/受け入れられなかった/完成度が低かった写真表現も、現代には出来るということになる。「それなら、私はそれがしたい!というより、私がそれをしたい!」それに、写実的な写真というものも、写真史上に無かったわけではないと思っている。ピクトリアリズムのあれもそうだろうし、決定的瞬間のあれもそうだろうし、私写真のあれもそうだろうし、ドキュメンタリーのあれもそうだと思う。写真家が作品として提示したもののほとんどが、写実写真をどこかしらに携えていると思っている。ただ、これまでは写真性という思春期のアレに縛られて抜け出せないものもあったのかもしれない。そしてその、思春期を特別に愛すのも写真家の一つの理想像でもあると思う。ただし、これから思春期は少しだけ記憶のスミに置いといて、大人になってみるのもいいものかもしれない。私は凄く子供っぽい性格をしているが、そういう人間が写真を大人にすることも有りえる話なのかもしれない。そして、私はその大人になった写真を見てみたいと思う。もしも、その写真が写実的で内に籠っている(まさに人間の大人のような!)としても、怖がらなくていい。大人から子供心や思春期の記憶が消えないように、写真は写真性を消すことなど永遠にないのだから。

そして、それと伴ってか。はたまた偶然か、私はここブランクラスにて超写実写真の展示会をしている。

私は、10年目という節目になる今年にブランクラスでの展示&トーク「明ルイ部屋以降/超写実写真発表会」を開催できることを喜ばしく思う。そして、私が私の作品を解体することだけに場所と時間を与えてくれたことを感謝したい。これから、もう一度組み立てていきたいと思うような、魅力的な新しい部品までもらってしまったような気がする。写真は、ミニ四駆やプラモデルではないのだろうけど、新しい部品が手に入れば使わずには居られないのが、私(男だし)の性分だと思う。そして、大人になるためには様々な部品/経験が必要だ。そして、要らない部品/記憶を置いていくことも必要なのだろう。なにより、今は単純に、その新しい部品と今まで集めてきた物達でどんなものを作ろうかとワクワクしている。




ワクドキ





はたまさのり(私は、たぶん写真家。金曜日の昼、アイスコーヒーをがぶ飲みしながら、私がいくら写真を大人にするんだとか言って…現実にしたとしても。きっと、次の世代にはまた子供っぽいと言われるんだろうなと思いながら…少し眠くなっている12時02分)