MUNTADAS

 12月9日(水)東京造形大学アントニオ・ムンタダス特別講義「On Translation series」に行ってきた。コンセプチュアルなビジュアル表現の教科書のような内容、その教養の深さにただただ驚いた。
 スライドショーを見ていたら、1997年に横浜のポートサイドギャラリーで行われた「Between The Frames」を見ていたのを思い出した。それはアートを取り巻く環境、作品、作家、アートの専門家たちの関係を逆転させ、ブース(作品の中)の中からアートを取り巻く環境を眺めるという作品だった。
 ムンタダスは、ビジュアルを扱うものたちがみな考えなければいけない「image」というものの受け取られ方を、ユニバーサルな言語に翻訳して展開している。たとえばメディアに登場した「image」が、ある場所の「ランドスケープ」になっているようなケース(事件があった場所の写真など)を取り上げて現在のその場所の写真と対峙させて「Translation(翻訳)」を試みる。(Media Site/Media Monuments.のシリーズ)
 いってみれば1つ場や空間(場合によって、field、space、site、situationと言いわけられ、あるいは複合させて示している)には意味や「image」が多層に重なっている、それを読み取ってクリアーに示すこと、それが彼の作品の「Site & Situation」にもなっているのだ。
 講義の最後にアメリカ合衆国大統領選のTVによるコマーシャルキャンペーン(「60min」などでおなじみのネガティブキャンペーンなども含まれている)をつなげただけの作品の中から1部(全編では1950年代からの映像が収められているそうだ)2004年と2008年の大統領選キャンペーン映像が流された。浮き彫りにされたのは、今日のプロパガンダのイメージが洗剤やらシリアルやらと同じようなイメージに変換されているという不気味な実態だった。(全編を見ればその変遷も見て取れるのだろう。)
 「image」の問題をストレートに見せつけられて、想ったのは、「言葉」にも被さっている「image」のことだった。日本の特殊な文化状況では、この「言葉」に被さっている「image」が手強い。いろいろなところでよく話していることだが、たとえば、「芸術」「ゲイジツ」「美術」「現代美術」「アート」「ART」「現代アート」などなど、いろいろな場面でいいわけられているが、これらはよく考えると同じ意味を示す言葉だ。違うのは「image」である。人々はこのニュアンスにも似たイメージに五月蝿い。しかしやっぱり強く言いたいが「意味」は同じなのだ。
 話は変わるが明日の+nightの伊東乾のパフォーマンスは、ムンタダスの言う「image」とほぼ同じような扱い方で、「sound(音)」を問題にしている。明日の演目は「一つ目巨人と片耳小僧- 死角の詩学-」というもの、さまざまなメディアや状況で「音」がどのように「脳」や「身体」に影響をおよぼしているのか? 実は私も明日になってみなければどんなことになるかわからないのだが、暗闇、トランジスターラジオ、ろうそくの明かり、アルミホイル、チベットの法具などなど、アナログなもので、場や空間を満たす音(振動)の作用、効果を実感する、というようなことをするらしい。



小林晴夫