頭山インタビュー変奏曲

 偶然なのか必然なのか? 先日、2月27日(土)の+nightは伊藤誠つながりな夕べになった。鈴木光くんは誠さんの紹介(武蔵野美彫刻の教え子)なのでストレートに誠つながりなのだが、外島貴幸くんの今回の朗読作品の演目「頭山変奏曲」の素地になった落語「頭山」は誠さんの十八番(おはこ)なのだ。
 十八番といっても、もちろん誠さんが落語をするわけではない。彼は自身の作品を考える上でこんなことを言っている。


自分の知っている街の中を 歩いている夢について思考する。
その地図を手探りでつくること。
「単純で複雑」な迷路は可能か?


 そういう伊藤誠の作品に通底しているナンセンスの1つの理想が落語の「頭山」だというのだ。
 もう1組の鈴木光+小川圭祐チームが問題にしたのは「無言・無音」。会話や作業の途中に、なぜか(さまざまな理由で)生まれてしまう無言や無音という状態をインタビューとミュージックでつくり出し、体感するという作品だった。
 それはハードディスクがカリカカリカリ考えているような「間」なのだそうだ。(小川くんの言)
 あるいは、無言の状況というのは「コミュニケーション」の「バグ」みたいなものかもしれないし、「コミュニケーション」の正体のような気もする。どちらにしても「コミュニケーション」がしっくりと機能している瞬間というものを見たことがない。逆のケースはいくらでもあるのに…。
 奇しくも私は最近、毎週末にインタビューをしている。「無言」に潜む理由は怖いと思う一方。それがどんなに大事な場面であっても、またどんなに長い無言状況であっても、しみじみその「間」を楽しんでいる私がいる。
 私自身が生み出す「間」は大抵の場合、頭が真っ白になっているだけのことなのだが、私はあまりパニックにならない。また言葉が頭に湧いてくるのを待つだけのことだ。そんなとき私ひたすらは周囲の音に耳を傾けて風流を味わうことにしている。



小林晴夫