鈴木理策の「熊野について」について

 昨年と今年のゴルデンウィーク、東京藝大先端芸術表現科1年生が参加する那須高原合宿にゲスト講師として招かれた。先端の准教授である鈴木理策氏から頼まれてのことだ。
 両年ともに同じ課題を出した。「彫刻の経験を写真にする」という演習なのだが、内容はというと、たとえば、ものそのもの、ものの形、ものがある状況、ものとものの関わり、それらを取り巻く空間、そこに流れている時間、空気や光、温度や湿度までをも含めたアトモスフィア(雰囲気)などなどについて考え、面白いと思われる場所を探し、そこにアプローチし第三者にも伝わるものとして強化、特殊な場をつくる。さらにその状況を写真に落とし込むのだが、一度頭を切換えてもらい、ある場でダイレクトに経験するものを写真を通して伝える。彫刻の経験と写真の経験の違いをよく考えるという演習だった。
 この演習は東京綜合写真専門学校での私の講座「コンテンポラリー・アート・トレーニングス」で、数年前から少しずつバージョンアップさせながら続けている。コンテンポラリー・アートにおいて、彫刻家の理念が開陳したことが、どれだけ重要かは言うまでもないことだが、私はその経験というものが、20世紀の写真が期せずして捉えてしまった「世界の断片」と、酷似しているように思われてならないからだ。写真行為を前提の学生たちを相手に、ブランクージやナウマン、オッペンハイムについてしゃべるのは相当骨の折れる作業なのだが、ちょっとでも「写真が撮ってしまっている世界」と、「私たちが住まっている世界」との接点を見つけてほしいと頑張っている。
 那須高原合宿でやった演習では、私がつくったプリントを見ながら彫刻的な経験についての考察を述べたあと、理策氏が写真を撮る際の留意点を話した。学生たちの興味が美術に傾いているせいか存外、スムーズに授業は進むのだが、もちろんそこに鈴木理策がいるというのが味噌なのだ。
 学生たちが「あーでもない、こーでもない」と、演習に取り組んでいる姿を横目に、理策氏と私は合宿所の周辺を歩いてまわる。そのときに理策氏から湯水のごとくアイデアが溢れてくる。私は「やっぱりな」と独り言。彼の写真による仕事の前提になっているのは、やっぱり美術的な思考なのだ。
 2007年の東京都写真美術館での鈴木理策展「熊野、雪、桜」を見たあとに、どうしても伝えなければならないと思って本人に話した話がある。それは宮崎駿が映画「崖の上のポニョ」をつくる動機を語った発言だった。
 宮崎はインタビューで、テートギャラリーで見たラファエロ前派の絵画に衝撃を受けたと話している。彼が長きに渡ってアニメーションで表現しようとしていたものが、すでに描かれていたと言うのだ。しかしそれはアニメーションでは叶わないもので、そのために「ポニョ」では、もっと素朴なのっぺりした質感の作品を目指したのだそうだ。
 ラファエル前派といえばロセッティーを思い出してしまうが、宮崎が特に指摘したかったのは『オフィーリア』(ジョン・エヴァレット・ミレイ・1852)のことだったのではないだろうか(あくまでも想像だが)。宮崎が言う、求める表現とは、「芸術シンドローム」とも言うべき、日本人が大方共有してしまっている、「芸術なるもの」のイメージとその源泉をある程度言い当てているように思う。考えてみると、明治維新あたりから、怒濤のようになだれ込んできた「西洋の芸術」、そうした18世紀から19世紀の西洋の写実絵画に描かれていた、信じ難いような「存在」を人々が驚かなかったはずがない。日本人の芸術への憧憬みたいなものが、熟成発酵して100年以上たった今も、多くの日本人の頭のなかにイメージとしてすり込まれているに違いない。
 なんでそんな話をわざわざ理策氏に話したのかというと、鈴木理策の写真には、宮崎がアニメーションでは叶わなかった、その崇高な瞬間というものが、すんなりと映し出されているように見えたからだ。「あー、だからやっぱり、洋画でも日本画でもアニメーションでも駄目だったんだけど、写真だったのか」という感想を私が持ったということだ。明治以来やっとのことでこのシンドロームから脱することが出来るぞ、とも思った。 
 ところで、それで鈴木理策の写真を言い当てられるとは思っていない。今年の3月27日(土)+night「熊野について」というタイトルでスライドショーをしてもらった折、あらためて彼の作品について考える機会を得た。その日のショーはblanClassの2つある大きな窓のうち1つはバネルで埋め1つはそのままにされた。埋められた窓の前にはスライド用のスクリーンが、なぜか中心から左寄りに吊るされており、隣にはとうとう使われなかった黒板が壁に掛けられていた。私はその様を見て「理策さんらしいなぁー」と思った。それは窓に切り取られた外の風景を観客の無意識にすべり込ませる仕掛けだったのだ。スクリーンには鈴木理策がカメラで切り取った風景が映され、窓の外では時折赤い電車が通り過ぎる。Bゼミの講師をしていたこともある彼らしい空間の配慮が、心地よい夕べを演出した。
 そのインスタレーションも含めて、熊野の写真たちを、その編集の仕方を、1枚1枚検証していくうちに、ふと、2人の江戸時代の絵師による襖絵を思い出した。1つは円山応擧の兵庫県香住町大乗寺芭蕉の間にある「敦子儀図襖」と、もう1つは長澤蘆雪南紀串本町無量寺の「虎図襖」だ。気になったのは、東洋の絵の典型として、地の余白や金箔がつくり出す空間が自由であることもそうだが、ここにあげた2つの襖絵に現れている8面の襖の関係、「敦子儀図襖」4面ずつを1対に角合わせにつくられている関係、「虎図襖」4面の表と裏に仕組まれた関係、どちらにしても平面上に完結するものではなく、立体的に経験されて初めて成立する表現のことである。
 鈴木理策の展覧会では、互いの写真が絶妙に関係しあうようなインスタレーションが少なくない。そこに文法のように通底しているのは、日本の襖絵に見られるような、言うなれば「日本語(大和絵)の文法」なのではないだろうか。本人に聞いてみたら、ふるさとの新宮から近い無量寺の「虎図襖」はもとより、大乗寺芭蕉の間にある「敦子儀図襖」も実物を見ているそうだ。
 実は、那須高原の帰りの車中、「鈴木理策論」を書いてみないか尋ねられた。もちろん書こうと思う。が、ここ2週間つらつらと鈴木写真について考えていたら、いろいろと思いついて、このコラムには収まらない。その上、諸々、調べなおしたり、勉強しなおさないと、軽々しく書ききれないことの多いことにも気がついた。
 夏目漱石の「草枕」も読みなおしたいし、ラファエル前派もそうだが、コンスタブルのことや、コロー、バルビゾン派についてもおさらいしたい。旅とスケッチ(スナップ)ということで言えば、エリック・フィッシェルの絵も考えてみたいし、なによりも(これは鈴木理策のみならず日本の写真の多くに関わる文化の源泉として)松尾芭蕉も読みなおす必要がありそうだ。いずれにしても、日本のなかに散りばめられた文化的なコードが総動員して鈴木理策の写真が成立していると、私は睨んでいるのだ。
 ということで、このコラムの最後に芭蕉が「野ざらし紀行」のなかで、桑名から熱田に向かう途中で書いた句を一句。


草の枕に寝あきて、まだほの暗きうちに浜のかたに出て
明ぼのや白魚白きこと一寸


こばやしはるお