秦雅則/写実写真

写実写真

 秦雅則は「写真には自分が肉眼で見たものごとが写っていない」と言った。
 +night公開対談中、blanClassで行われた展覧会(11月8日-13日)のタイトル「目が見えない」の理由を問われての返答だった。このタイトルには「目が見えなくなった理由/そして結論としての写真」という副題が続いている。(対談(スライド&トーク)には「目が見える」というのが別のタイトルついていて、副題が「もう一度、目が見えるようになった理由/そして21世紀写真の動向についてのトーク」と続いていた)
 なるほど肉眼の経験は決して写真には写らないのかもしれない。しかし写真には見ていたものの替わりに、見ていなかったものが写っている。なかには概念化していないもの、あるいは概念化が極めて難しいもの、それどころか、名前すらついていない、あるいはつけかねるような代物や状況なんかが写ってしまう。
 そんな「out of control」な20世紀の写真表現から多くの刺激を受けて、たとえば絵画における抽象運動が爆発した。起爆剤になったのは写実の仕事を写真に奪われた反動などではなく、それどころか写真こそが抽象概念の発見者だったと言っても過言ではないくらいだ。
 たとえばある街に古くから人々に愛されていた教会があったとして、その教会の写真がはじめて撮影されたとする。すると写真の中では教会の前にあまりにも大きな銀杏の木があったために教会がまともに写っていない。そうなって初めて人々は教会の前の銀杏の木が視界を遮っていることにに気がつく。そもそもその教会の全体像を臨む視点がその街には準備されていないのだ。教会も銀杏の木も十二分に愛されていたにもかかわらす、それらの関係を写真を通してはじめて思い知ることになる。普段の生活ではそれぞれが頭の中で、細部がバラバラに認識され修正され、統合していたのだ。
 それでは頭のなかで修正が加えられた図像とカメラが切り取った図像ではどちらが本当の経験なのだろうか? どちらにしても双方に限界があると言うほかはないのだが、写真以前の写実絵画の画面上には、人々の認識を超える事件は起こり得なかった。つまり写真がミクロにもマクロにも前人未踏のリアリティーをさらけ出す毎に、人々の認識そのものが変化をしていったということだ。
 写真に発見した、ここでいう抽象とは、写真に写ってしまっているのだから、もちろん具象の反語ではない。前述の例に限らず、抽象が写実に替わってリアリズムの担い手になったということだろう。写実にしても抽象にしても具象表現の一要素に過ぎないということだ。
 繰り返すが、写真には見ていたものの替わりに、見ていなかったものが写っている。なかには概念化していないもの、あるいは概念化が極めて難しいもの、それどころか、名前すらついていない、あるいはつけかねるような代物や状況なんかが写ってしまう。その言語化の難しいもののことを「抽象」と呼んでいるのだ。
 秦雅則の写真作品を一通り眺めてみると、はじめは、そうした写真の本来持っている抽象性を周知し、遊んでいるように思われた。写真がそもそも抽象的だったからこそ、写真は性的な対象を崇高なものにも猥雑なものにも簡単に変換することができ、そのうえ「もしかすると本物かもしれない」という、ファンタジーとして語り得たのだろうと思う。秦は大量に写真を投げだすようにこうした写真のできうるファンタジーやフェイクを遊んでいる。
 しかし見進めていて、ふと別の可能性を模索しはじめているのことに気がついた。それは複数の画像をパソコン上で切り貼りし、本当と嘘のきわどい境界線を探るように、ダミーのグラビアアイドルをつくりだすシリーズに特徴的に表れている。今回のblanClassでの展覧会に出品されたユニセックスな、子どものようで大人のような、人間のようで人形のようなイメージには、web上で収集された既存の画像、自身が撮影した写真、1ピクセルだけの自分自身の映像の一部も組み込まれ、十数人分の情報が重ね合わされていると言う。
 その作業を見て、私は彼の写真が「写実写真」だと思った。写真が生まれつき持っている抽象性を画面から丁寧に削ぎ落としていく仕事だと理解したからだ。
 彼はデジタルで加工したイメージをフィルムで再撮して、そのフィルムを野ざらしにし腐らせたりしている。それは、特にデジタル画像が失ってしまっている時間やサイズのリアリティーを作品の説得力として必要だと感じているからだろうと思う。そういう一見なんのためにしているのわからない手順は、彼が写真を専門に据える前に「フォルムのない絵」を描いていた経験に由来しているのかもしれない。迷いや試行も含めた、絵を描くの作業が、結果的にほとんど画面の下に埋没してしまうことに、いらだちもし、またリアリティーも感じていたのだろう。
 秦が専門に選びとった写真表現は、絵画でしようとしていた曖昧さからはいったん解放されたものの、写真でしかできない仕事を遊ぶなかで、若い頃に絵ではできなかった独自の「対象との向き合い方」を発見したように思われる。
 写実絵画はぎこちないものだ。どんなにたくみにつながった技巧をこらしてみても、なんだかとっても気持ち悪い。その不自然さと戦って画家たちはスフマートとか、ストロークとか、焦点とかを駆使してリアリティー(自然さ)を勝ち取ってきた。そのどの試みも抽象表現に向かった歩みであったし、先述の通り写真の役割はあまりにも大きな事実なのだ。
 秦の写真の近作には、絵画のぎこちなさでも、これまでの写真の気持ち悪さでもない、異様な感じが見え隠れしている。その感触のようなものも含めて彼の写真を「写実写真」と呼ぶことにする。


こばやしはるお