雨は降る時を知る

 ここ数年、彼女が雑誌やなんかの試写会に応募したのが年に数回あたっていて、昨日も試写会に行ってきた。映画は「きみに微笑む雨」。久々のホ・ジノ監督映画だ。前作の「ハピネス」を見逃しているせいもあるが、決して量産型の監督ではないのでいつも待ちわびて観る感がある。
 ホ・ジノ映画は「八月のクリスマス」を観ていっぺんに好きになってしまった。この作品は死期を知った男の生き生きとした短い日々、カットとカット。その日々で少女との恋とも言えないような淡いやりとりが、なんとも言えず切ない。そして映画のコマとコマのあいだにスーッと消えてしまうような印象の死が訪れる。その死は残った少女が変わらず生きる時間から、わずかに予感できる。終始、ほとんどの経緯は説明されず、映画の文法のなかで観客は事と次第を納得していく。
 たしかに韓流らしい「恨」が中心にある。どうしようもなく人々は擦れ違うし、人知や努力ではどうにもならない現実を垣間見るようで胸に大きな梨でも詰まったような感触を残す。しかしほかの韓国映画のようにストーリーに過剰な根回しを感じない。これぞ映画だと感じ、香港のキン・フー、台湾のホー・シャオシン以来の逸材だと思った。
 「きみに微笑む雨」は、2作目の「春の日はすぎゆく」で主人公が音を求めて訪れる竹林を思い出した。音効さんである主人公がヘッドホンで聴き入っている音を観客も聴く。ホ・ジノならではの描写だ。今回の映画でも竹林の独特の光と音の風景のなかで重要なシーンが展開する。3作目の「四月の雪」でもそうだが、ホ・ジノ映画は、時節や天気、湿度や気温、風や雑踏の音などといった、周りに漂うアトモスフィアの描写に長けている。
 「きみに微笑む雨」は、なんだかいままでの映画によく似ていた。集大成といえばそうだが、驚きは少なかった。ただ1つ、全編四川大地震の1年後の成都オールロケの映像に、本当に刻まれている災害の傷跡は、ストーリーにもリンクしていて、風土から一歩踏み込んだ現実と虚構のあいだに映画を位置させようという意気込みが感じられた。どちらかというと映画の場合、現実も虚構よりに歪められてしまいがち(ドキュメンタリーでさえ)だが、観客の五感を刺激するような描写と相俟って、かなり成功していたと思う。
 それにしても、さすがは「恋をしたくなる」恋愛映画の名匠、恋の描写がやばい。切ないとかもどかしいとかを超えてきている。とってもドキドキしてしまった。

小林晴夫