生と死

 前回の+night(2010年4月24日)は、多田正美[サウンド・エンカウンター]の第2回目。映し出された空を前に、ますます迫力のあるインプロビゼーションだった。ノイズも含めて、現代音楽の即興演奏というのは、これまでもいくらかは観てきたが、多田氏の演奏は、それらのものとちょっと違う。
 インプロビゼーションといっても、ただでたらめに演奏するのではなく、たいがい一種の「流れ」がある。もっとも典型的な即興の流れは、静かにはじまって、いくつか小さい山場を経験したあとに、怒濤のような盛上がりがあって、ブツンと切れて終わる、というものだ。そういう演奏は聴いている方も慣れっこになっているから、なにか安心して観ていられる分、退屈さも否めない。
 多田正美の演奏にも、彼独特の流れがある。でもそれはいわゆる即興の流れとは逸脱しているように思われるのだ。そのせいか観ている(聴いている)方も、終始、そわそわと落ちつかない感じだ。最近の[サウンド・エンカウンター]の盛上がりは最後の部分にはなく、中盤よりややあとの方に置かれている。そして演奏者は1度死んでしまう。1990年代の増幅器を一切使わず「音の素材」だけを使って演奏していたころにも、あまりにも激しい音の渦を演奏したあとに、ひとときパフォーマーは死んでしまう。それはそのころも今も変わらず、観るものをある種の不安に陥れるものだ。1990年代の演奏では、それがエンディングだったことが何度かあったような気がする(記憶が正しければ)のだが、現在の多田正美は、それでは終わらない。その死を眺める、もう1人の人間のように、演者が蘇生するのだ。
 若いころ、それまで身を置いていたアカデミックな音楽を捨てて、小杉武久とタージマハル旅行団に接近した氏は、小杉氏のニューヨーク行きをきっかけに解体していった「開かれていたはずの場」にも失望し、一時(5年間ほど)浜松でピアノの制作に関わっていた。しかし1982年に人に聞いて訪れた「西浦田楽(にしうれでんがく)」に触れ、そこからまた即興演奏を再開した。
 西浦は静岡県磐田郡水窪町にある集落。田楽は、切り立った山の中腹にある西浦観音堂で、毎年旧正月の18日(3月の初旬)に行われている。月が出てから日が昇るまでの時間、延々と「地能」という神事が(それぞれの舞いや芸能を代々世襲で)とり行われる。実は私も1996年3月7日〜8日、この「西浦田楽」に、多田さんのガイドで行ったことがある。
 そのお祭りで多田さんはなにを感じとたのだろう? 私が想像するに、多田氏は、天がもえあがったり、神々がたちあがるように、祭りの音がたちあがる様子に感じいったのではないだろうか? そして、その様子が永々と1300年続くという事実に、人の営みの「儚さ」や「死」を見つけたのではないだろうか? 幽態離脱して「死」を覗き込むことに「生」というものは、見いだせるという気がする。
 一方で「日本の古いお祭りには〈型〉だけが継承されている」と多田氏は指摘する。1999年に文化庁在外芸術家研修員としてオランダに行ったときに、そのことをあらためて痛感したのだそうだ。宗教改革が徹底した土地がらが影響しているのだと思うが、古来のお祭りをオランダで見つけることが出来なかったのだ。その代わりに「ポルカ」をベースにした演奏のあるお祭りで、フッとわきあがるダンス、隣の人の肩に両手を置いて、体育館を埋め尽くす数百人が一瞬1つにつながり、そしてまたすぐに離れてしまう様子に、型式ではないお祭りの原点を見たと言うのだ。
 日本のあらゆる芸能の出発点になったと言われている「田楽」や「猿楽」、「型」を守ってこそ、残っているそれらを透視すると、人間が原始に持っていた死生観が浮かびあがってくるのかもしれない。そういう祭りの原点に、多田正美は触発されて、従来の即興からジャンプしようとしている。クライマックスは、怒濤のあとの死ではもはやなく、3分間にわたって沈黙され、虚(うつほ)な空を眺める氏の姿だった。

 インタビューでは、そのお祭りを観て、なにを感じ、その後の演奏のなにが変わったのかを聞こうと思っていた。が、なかなかうまく質問がまとまらず、結論のようなところまでたどり着けなかった。あらためて、多田氏のご自宅にでも伺って、時間を気にせずインタビューをしようと思っている。


こばやしはるお