結び目をみる、ということ|中村達哉

 駅のプラットフォーム。丸く研がれた石。片方だけ落ちている運動靴。病院の壁。壁と壁のあいだを走る溝。くもり空のしたの鉄塔。色とりどりの看板。鳥の群れ。信号機。腐食して苔が生えたコンクリートの破片。街路樹。木造家屋。ガムテープ。公園のすべり台。水の入ったボトル。錆びついたトタンの壁。読みさしの本。白くて大きな冷蔵庫。緑色のタイル。まるいガラスの瓶。消火栓。少し撓んだ、石の橋…。

 モノたちが、ひとつの用途のうちに完結し、押し黙っているかぎりにおいて、世界は安定している。あらゆるモノが役割を持ち、役割として機能を果たしさえすれば、私たちは安心して計画を立て、目的をもって生活をすることが出来る。

 山本麻世は、そんな安定したモノたちのあいだに、ほんのすこしの揺らぎを与える。さまざまな色や質感の紐を編み込み、織り上げ、多くは道端にあるなんでもないモノに寄り添うようにして、そっと置く。あるいはそのモノに少し介入するようにして挿し込み、引っかける。このいっけんささやかに見える行為は、その場の強度を上げることで見る者に作品をつよく印象づけるものでなければ、その場所に隠れた歴史や文脈を、ことさらに引っぱり出して可視化するものでもない。彼女の作品には、もし見る者が注意を怠れば気づかずに見過ごしてしまうほどの、ある薄さ、というものがある。
 子供たちが遊ぶ公園の樹木に編みこまれた、青色と黄色の洗濯ヒモ。森の中の一本の樹の溝に挿し込まれた、紺色の靴下。白いレンガのあいだに貼り付けられた同じ色の羊毛は、窓からの光が射し込むことによってやわらかく顕ちあらわれる。停車中の車のライトの、オレンジと白色に合わせるようにして、同じ配色の編み物を隣の壁に引っ掛ける。

 それらの行為は、作家による一時的な遊び、あるいは即興的な対話やおしゃべりとして、時にいたずらっぽい軽みをたたえている。その場に立ち会った者は、そこに作家とのひそやかな楽しみを共有できるにちがいない。それでも、作品の前に少しのあいだ佇んでみて、たとえば作品の背景になっている壁の、赤色のレンガのテクスチャーがひとつひとつ違っているということに気がつくとき、あるいはコンクリートの壁の一部分だけが腐食して苔が生えているのを知ったとき、私たちは、モノがモノとして帯びている具体的な表情や姿に、ほとんど初めて向き合うことになる。

 そんなとき、ひょっとしたら作家が創作という身振りを通して私たちに差し出すのは、記号的役割や目的から自由になったモノたちが織り成す、世界の断片の無数の組み合わせやその可能性なのかもしれない、と感じる。作家はいっけんよそよそしく、お互いに無関係であるかにみえる私とモノ、モノとモノとのありようが、実はどこかで繋がっていて、見えない関連性のなかにあるということを、思わぬやり方で指し示してくれるのだ。そして、これらのモノたちとの連続性に自らを開くことは、つねに自分自身をあいまいな領域に連れ出すことであるだろう。作家にとって、生活のなかでなにげない日常を営むことと、創作の場を切り開くことは、同じ意味合いを持つことになる。

 山本麻世は、モノたちを呼吸させ、息づける。彼女はふわふわとした足取りで出かけていって、たとえば韓国南部の港町、麗水(yeosu)の、少し撓んだ石橋の上に佇む。そんなふうにして自らの身体を運んでいって、川上から吹きおろす風を浴び、水の音に耳を傾けるとき、作家の創作にとって、じつはほぼそれだけで充分で、ほかに付け加えるべきものも差し引くものもないような地平に立っているようにさえ、私には思えるのだ。
(山本麻世「THROUGH」日本,韓国、オランダで発表された作品集・2011年10月発行より)


なかむらたつや