ここ数ヶ月、机の上に、リリアン・ロスの「耐えうること」(※1)というサリンジャーの追悼文のコピーが置いてある。
随分前に読んでから、雑多なチラシやプリント類に紛れては現れ、紛れては顔を出す、を繰り返している。
どこかに分類して書類ケースにしまってもよいのだけれど、時々(顔を出す度に)読み返したいと思っているのは、何度読んでも「耐えうること」というのがいったいどういうことなのか、よく分からないからなのだと思う。
またもう一度読んでみた。
サリンジャーがおおよそ耐え難い人々から逃れて、ニューハンプシャーで”普通の”暮しをしていた頃、リリアンの送った、子供たちが五月柱(メイボール/五月祭りの踊りに使う柱)の周りをスキップして回る話を書いた手紙に対して、それを読むと、「この日々に耐えうるどころか、救われるよ」と返事をしている。
彼自身が、おおかたの作家が受けるという“特殊な事情もなく”成功すると受ける罰に耐えていたのかもしれない。
もしかして、ニューハンプシャーでエマソン(※2)の言う「人間」になろうとしていたのかもしれない。
世の中には「耐えうること」と「耐え難いこと」の2種類しかないかのようだ。
では、リリアンの「耐えうること」とは何か、誰も知らなかったサリンジャーの素顔を明らかにすることで、彼の代わりに「ハゲタカを牽制したり妨害したりする」それがリリアンの「耐えうること」なのかもしれない、と同時に、リリアンはそんなサリンジャーをちょっとだけ批判しているのかもしれないな、と、今回読んでみて思った。
※1 "THE NEW YORKER"2010年2月8日号に掲載 Lillian Ross"BEARABLE" http://www.newyorker.com/talk/2010/02/08/100208ta_talk_ross 日本語訳は「ヨムヨム」2010年5月号に篠森ゆりこ:訳で掲載
※2 ラルフ・ウォルド・エマソン(思想家・作家)『日記』より「人間は、伯母やいとこがいなければならず、ニンジンやカブを買わねばならず、納屋や薪小屋を持たねばならず、市場や鍛冶屋へ行かねばならず、ぶらついたり眠ったり地位が低かったり愚であったりしなければならない」
あべしょうこ