今月初めに、「生きる形」展(東京大学伊藤国際学術研究センター)を見に行きました。
骨が並んでいて、基本キャプションはついていないので、それが誰の骨なのか、どこの骨なのかはわからない。(分かる物もある。)
これは何だろうと見てみる。骨はもっと滑らかでプラスチックや石膏のようなだと思っていたけれど、細かな繊維のようなものが束になって固まっているように見える。
接合部分の凹凸も複雑で機能的で美しい。
骨であるけれども、かつてそれには肉がついていたり体液が染みていたりしていただろう、だから展示されている骨は、別の抜け殻みたいな物だ。まさに遺物。
だから、自分の体内にあるだろう「骨」だ、と思うには少し感覚的にズレがある。
自分は自分の骨を直に見ることは、怪我をしたりしない限りそうそうないし、骨が私自身を形作っていると言ってもいいのだが、それが切り離された形で見ていても、私の中にもあるということと結びつきそうで結びつかない。(私が私の脳について私の脳で考えるとかみたいに)
その分からなさ加減が「死」をはっきり分かっていると言えない感じに似ている。
骨がそこにあるということは、そのかつての持ち主は「死」んでいるだろうから。
展示されている骨は「遺物」、では中身はどこへ行くのか(いや外身か?)それらを遺していったものとはなにか、なぜ、骨は残るのか、そうかけ離れてはいない骨が私の中にも、展示されている骨の持ち主にも、そしてその骨を包んでいた細胞も同じような形をして付いていたのだろう、なのに私たちはそれぞれ違う。
ちょっとめまいがする。
奇形の牛の骨に至っては、いったい何がどうなってそうなってしまうのか、遺伝子?寄生虫?
それらに対して私(私の意識)は一体どこまで関わることができるのか。
例えば、自分の子孫に遺伝子がつながって行くとして、その遺伝子に私の行動によってどのくらい何かしらを刻み付けることが出来るのか?
それはそういうものである、とある程度横に置いとかないと答えのないものがあって、それはいつまで横に置いとかなきゃ行けないのだろうか?
なんだかわからないけど、こういうことになって生きている私。
宇宙の謎とか、生命の謎とか、ある程度行くと壁にぶつかって、そこから先はあまり考えないようにしてきたことが、どっとなだれ込んできて、見慣れてない訳でもないはずの「骨」を見るだけでこんなにショックを受けるとは思わなかった。
もう一度(何度でも)、横に置いといたものの答えを更新しなければならない。
それは、陳腐な言い方だけど、世界にはわからないことの方が大半で、全てを突き詰めて行くことはとても大変で、でもその複雑さをもっとシンプルに考えることが出来るヒントになるような気がした。
「科学と芸術を乖離させた失態は、現代の大学にその責任の一環がある。大学は真理の探究であるはずの科学を経済力の指標としてのテクノロジーと恣意的に置き換え、美への渇望から遠ざけたからだ。だが、愚昧な人間たちを差し置いて、科学と芸術は、つねに一体である。そしてそれは、人間が獣に堕さないことを示す唯一の証ですらある。」 (会場パネルの一文)