〈場〉と〈空間〉

 11月7日、多田さんは午後3時すぎにやってきた。立冬だから、秋晴れとは言わないのだろうが、冬というには暑いくらいで、ものすごく気持ちのいい天気だった。われわれは多田さんとテラスでひとしきり日向ぼっこした。昼前からのんびり準備をしていたわれわれは、多田さんが持ち込んだ独特の雰囲気のおかげで、なにか余計にリラックスして慌てるでもなく、いつの間にかオープンの時間を迎えた。
 演奏の後、例のごとく公開インタビューをしたのだが「'70年代に小杉武久がタージマハール旅行団などの集団即興演奏で試みた〈場〉という考え方が、なぜか'90年代に書かれた文章にどこにも見当たらず、かわりに〈空間〉という言葉が無数に書かれていて、あまりにもショックでカタログのなかの〈空間〉をいくつあるのか数えてしまった」という多田氏の発言に、ふとその2つの言葉の差がわからなくなった。「違うよ〜!〈場〉と〈空間〉はまるっきり違うもんだよ〜」と多田氏。ちょうど客席に彫刻家の伊藤誠氏がいたので聞いてみた。伊藤氏は「〈空間〉というのは、ある枠があって、枠のなかで意味をつくること。〈場〉というのはそこでしか成立しない状況」というような意味のことを答えてくれた。なるほど〈場〉というのは人がまちまちに共有しているような、していないような、どちらにしても人が介在しなければ成り立たないものなのかもしれない。荒川修作氏が多田氏に自分の手のひらを示して「ほら、ここにも〈場〉があるじゃないか」、つまり世界と同じ大きさのものが手のひらに乗っかっているという言い方で〈場〉をたとえたらしい。
 多田正美の表現は、これまでアナログ・シンセサイザーの即興演奏、素材(真竹・石・枝・アルミパイプ・自転車のリム・銅鑼・おはじきほか)をつかった即興演奏、イメージ(ビデオカメラとプロジェクション)のインプロビゼーション、写真や映像の作品など、それぞれ別々に成立していると思っていた。でもこの前の双ギャラリーとblanClassでのサウンド・エンカウンターでは、これまでバラバラに試みてきたことが合流して1つの表現になっていた。
 即興という表現がそもそもそういう性格の表現なのかもしれないが、毎回決して同じ演奏にならないかわりに、1回で劇的に展開するわけでもない。ジワジワと少しずつ確実に変化し、何年か見逃してしまうと実はそこに大きな変化があることを見つけてびっくりする。もはや多田正美の表現は個別なものとして語るよりほかないというほどに、遠くへ来てしまったようだ。
 多田氏は「たとえば伝統的な拍子や音律が西洋から来た音楽教育でいう拍子や音律では割りきれない、呼吸みたいなもので支えられている」と話す。それは拍子や音律にとどまらず、表現(ART)を区別するあらゆるカテゴリーにも言える。古いものだけでなく現在の表現においても、近現代の括られ方では割りきれないものが多く、多田正美の表現のように簡単には割りきれない表現が、実はたくさん存在している。サウンドの仕事とイメージの仕事の共通点を質問したとき、多田氏は「私はわけのわからないことを話すでしょ、それはどう説明したらいいかわからないからなんですよ」と答えた。作家自身も「表現された〈場〉」やそこを満たすものを割りきれないでいる。それは作家自身が確かに経験したであろう「既存の〈場〉」やそこを満たすものが、そもそも割りきれない形で存在しているからなのだろう。

小林晴夫