二つ|Due

 葉山で「長澤英俊展—オーロラの向かう所」(神奈川県立近代美術館)を見た。1972年から2008年までの作品がポツポツと偏りなく計19点、コンパクトな回顧展といった内容。私は長澤英俊の作品をちゃんと見るのは初めてなのだか、これまで長澤作品に対してなんとなく抱いていた感じと、ちょっと違う印象を持った。70年代に発行された写真集の印象が強かったこともあり、もっと有機的な形態がドンと前に出ているものかと勝手に想像していたのだ。
 そのなかで特別面白いと思ったのは「二つの石|Due Sassi」(サイズの異なる、まったく同じ形態の自然石を模刻した大理石)「二つの輪|Due Cerchi」(ブロンズ製のたぶんまったく同じ輪っか)ともに1972年の作品だった。作家のひらめきが作品を通して生々しく、いまなお息づいている。そう思えたからだ。
 先に触れた写真集は本人が撮ったかは定かではない(なにぶん見たのが幼いころだったから)が、この「二つ|Due」のシリーズだったと思う。拮抗する2つのもの(形態)が1つの画面や見開きで展開していくというものだった。
 それ以外の作品には残念ながらその作家のライブなひらめきを感じなかった。イサム・ノグチの作品などにも共通するある種の抽象彫刻の洗練。異国で力を発揮するであろうジャポニズム。彫刻にあまり触れたことのない人びとが「現代彫刻」と聞いてイメージしてしまいそうな彫刻。そんな感じがした。
 同じようなことを「レベッカ・ホルン展—静かな叛乱 鴉と鯨の対話」(東京都現代美術館)でも感じた。
 小さなブースで連続上映されていた、「Performances 1(1972,22min)」「Performances 2(1973,38min)」「Berlin—9つのパートからなるエクササイズ(1974-1975,42min)」の3つの映像作品は圧巻だった。身体の延長線に拡張する鴉や鸚鵡の羽根、鏡、バランスポールや扇状の構造などが、生まれてきた瞬間、ひらめきの源泉が定着しているのだ。
 しかしギャラリーピースにはそういうものがまったくと言っていいほど感じらず、ニューヨーク型のコマーシャルギャラリーと美術館の間で商品として洗練されてしまった現代美術作品が持ついやな感じしか見つからなかった。
 美術のたのしみというのは作家の脳味噌が裏返しに垣間見えるその瞬間にある。ある種の洗練は、作り手にとっても見るものにとっても、そのひらめきを阻むものなのかもしれない。
 それにしても「レベッカ・ホルン展」は映像展示が多く、全部観ると単純計算でも6時間48分もかかる。当然全部観れなかった。2月14日までにもう1回行けるだろうか?


小林晴夫