写真家だらけ

 私は日吉にある東京綜合写真専門学校で「コンテンポラリーアートレーニングス」という講義と演習を混ぜこぜにした講座をもっている。その学校で教えるようになってちょうど6年、日曜日に卒業式があって、はじめて乾杯の挨拶を頼まれた。
 前日の朝まで呑んでいたせいもあって、また例のごとくスピーチの間に頭が真っ白になった。だから一番大事な部分のない間の抜けたスピーチをしてしまった。何度か前のコラムに「頭が真っ白になっても大丈夫」みたいな調子のいいことを書いたのがきっと祟ったのだ。写真家だらけのパーティーは現代美術畑の私にとっては何度行ってもアウェーな場所だ。そんなわけで少しパニクッた。
 先述の通り、ずっと美術畑で勉強や仕事をしていたので、写真だけを教える学校というのがまったく想像がつかず、初めてこの学校にくるときには、学生も先生もみんながカメラをぶらさげていると信じていた。授業中も学生たちはファインダー越しに授業に臨む...、卒業式みたいなときでも、全員がカメラを持ってお互いに写真を撮りあっているに違いないと勝手な想像をしていた。(実はいまでも写真学校を知らない人には、そういうところだと嘘をついている。)
 しかし実際にはそうでもなく、ほかの先生たちに聞いてみると、学生たちがあまり写真を撮ってこないと悩んでいる。日曜日の卒業式も2次会も3次会も4次会も、ほとんどと言っていいほどに、みんなは写真を撮らない。私は逆に異様な光景に見えた。だって、最近ではほとんどの人たちが、デジカメや携帯カメラをどんなタイミングでも四六時中バシャバシャ撮っていて、携帯のデータフォルダーは写真でいっぱいになっているはずなのだから...。
 そのうえ一昔前の素人スナップみたいに、ぎこちない写真も減り、撮る側も撮られる側も、結構ナチュラルにしている。世の中って実感が伴わないままにドンドン変わっていくものだ。そういう現状のなかで写真の専門性を考えるのはきっと大変なことなのだろうと察する。
 写真に限らずなにかを専門的に学ぼうとすると、それまで自然にやっていたことに対して、急に怖くなったり、躊躇いを持ったり、構えてしまったりということはよくあることなのだけれど、どこかでその箍を外してほしいと願う。
 写真が共通項の専門学校といっても、卒業生たちはずいぶんまちまちな進路に進んでいく。まだまださまざまな領域で写真撮影の技術を専門にしている人々は必要とされるのだろう。どこにいっても人の集まるところには、写真家とかカメラマンとか言われる人が1人はいるものだ。言い方を変えるとどんな集団にも写真を撮る人は一時にそう何人もいらない。やっぱり写真家が一堂に会している状況って異様な光景だ。
 もしかして、卒業生がこのコラムを読んでくれるかもしれないので、あらためて書き加えると、それぞれがカメラを武器に単身いろんな世界に飛込んでゆくとき、写真という1つの問題を共有できた仲間や師友が同じ場所にいたことは、珍しいことであり、貴重な経験だったということを認識してほしい。そしてこれからも変化しつづけるであろう状況の中で柔軟に生き抜いてほしい。



小林晴夫