眞島竜男:鵠沼相撲|京都ボクシング 3

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2010年1月16日に収録した眞島竜男公開インタビューの第3弾を掲載します。なお前回の「眞島竜男:鵠沼相撲|京都ボクシング 2」は日曜日ではなく、木曜日(5/6)にアップしました。



景色を見る


小林:もう1つ、眞島さんの作品というのは、放っといたら交わらないような異質な文化なり、異質なものを2つ選んでハイブリットしてるみたいな印象が、前からあったんですね。それで改めて去年の夏に「そうなんですか」と聞いたら、「いやそれはわざわざそう思ってるわけじゃないんだ」という意味の答えでした。
 掛け合わせと言ったらいいのか今日の作品にしても、「ボクシング」というものの思いつきですよね。岸田劉生っていう個人の歴史でもあるんだけど、やっぱり文化的なコードで言う「岸田劉生」というものと「ボクシング」という異質な文化を掛け合わせているんだ、というふうに思うんです。その辺りにはどういう意識があるんでしょうか?

眞島:確かに「ハイブリット」というようなことをよく言われたり、「トランスカルチャー」みたいなことを言ってくれた人もいて、もちろんそれにはすごく関心があります。本来、何でもハイブリッドですからね。逆に、ナチュラルではないもの、人工的で「これぞ人間」というものをやったのが「モダン」という意識だと思うんです。そして、それも色々あるコンディションのうちの一つとして了解されてしまう状況では、程度の違いはあっても全てが「ハイブリット」なのは確かなんです。
 だからハイブリットさせるってことには、そんなに興味がないんです。どちらかと言うと、異質なものが2つでも3つでも4つでも100個でもいいんですが、それが一つの場所なり一つの情景なり、一つの何かこういうところ(両手で丸を作りながら)に置かれた時にポッと見える風景というか景色というか、その感じに興味があるんです。
 だから、これとこれを掛け合わせることで、これがこう変わりましたっていうのは、その絵(さっきと同じく両手で丸を作りながら)を作るために必要なことであって、もちろん「岸田劉生」と「ボクシング」というのは漠然としたイメージとしてスッと私の中に入ってきたものだから、私が今までに経験したり考えてきたことから飛び出してきたものだから、それは私の関心の中心にあるんだけれども、それが合わさった時にどういう風景や景色が現れるかが問題なんです。

小林:「景色」という言い方は日本のたとえば数寄屋文化なんかを読むコードとしてよく使いますよね。「ここに景色がある」っていうような言い方を…。もしかしたらそういうのにも近いかも知れないですね。

眞島:たぶん「景色を見る」っていうことに一番興味があるんでしょうね。「それを見たい」ってことなんですよ。だから「AとBをいじりたい」っていうのとはちょっと違うんです。それで私は、視覚美術の作家としてやってるんだと思うんですね。もちろん文章を書くこともあるし、今回も文章を書いて朗読という形で発表して、こういう装置も作って、他にも色々やっているけれど、最終的に見たい「景色」っていうのは視覚的なものじゃなくて、この辺に(後頭部から頭頂部を指して)ぼやっと残ったり残んなかったりするイメージのことなんだと思います。それを「景色」「風景」「状況」「空間」…空間じゃなくて「場所」、何でもいいんですけれど、そういうものとして「見たい」「見てみたい」っていうのがあるかな。漠然とした話ですけど、漠然とした風景をやろうとしているところはある。



モチーフとしての岸田劉生


小林:感情移入してるところってあるんですか? 作家眞島竜男が今日のお話しで。

眞島:他のアーティストの話を聞いて何も感じないアーティストって、たぶんほとんどいないと思うんですよね。まぁ、年齢が結構近いっていうのは実際ありますね。劉生が38歳で亡くなってるし、私が今39歳だからほとんど同じで、私は結婚していないし子供もいないけれど、そういうところで割と入りやすかったっていうのはありますね。実際に書いていく上で、自分にとって分かりやすい。24、5歳の時にこんな感じで世に出てきて、もうちょっと経ってこんな感じでキャリアを積んで…みたいなことをイメージしやすかったのはあります。

小林:わりとストレートにさ、クライマックスにあたるうようなあたりで、劉生の「精進して続けることなんだ」みたいなつぶやきがあるじゃない。あれなんかちょっとグッときちゃったんですけど(笑)。

眞島:何か、自分の作品でそういうふうに「グッときた」って言われると、ちょっと小躍りしちゃいますね。

小林:あぁ、結構ストレートだなと思って…。

眞島:でも、劉生自身がかなりストレートな人なんですよ。若い頃の日記なんて、本当に「自分はただ絵を描けばいいのだ! 真実に向かってただ進めばいいのだ!」っていうようなことを書いているんです。まぁ、熱い人ですよね。だから、そういう感覚がどこかで出てきて欲しいいんだけど、どこで来るのが一番いいかっていうのを考えた時に、あそこのタイミングなんじゃないかな、と。あそこが、そういう熱さをスルッと持ってこれた場所なんですよね。むしろ前半の方が若い頃の話だから、そういうことをいっぱい書いてもいいんですけれど、どうにも入れようがなかった。でも、それを入れないと、やっぱり自分の中でシックリこないというか、嘘になってしまう感じがするから、どこかに入れたいと思ったんです。まぁ、木村君が上手いこと嫌な形で再会を果たしてくれたお陰で劉生がスッと自分の心の中に戻ってくれて、一行だけだけれどチョロッと書けた。あれを書けたのは本当に嬉しかったですね。

小林:うん、いやなんかすごく文学的でもあり、なにか演劇的というか映画的なのか、あまりにも、いい場所にその件があったから、どうなんだろう、本人も感情移入してるのかな? と思って…。

眞島:えぇっと…うん、感情移入もしつつ、もちろん構造として見て書いてるところも大きいです。特に今回は日記っていうフォーマットがはっきりしていて、前半と後半をなるべく対称関係になるように持っていきたい、装置も対称関係になるような形でやっているから、そこにも構造からの判断がやっぱり強く出てきていますよね。
 私は造形的な関心がすごく強いんです。劉生の絵も造形的な関心が高いところが圧倒的に面白いんですが、そこに文学的な趣味が強く入ってきたのが京都時代だと思うんですね。京都時代の劉生は、今、再評価される対象になりつつあると思うんですが、劉生の京都時代をどう捉えていいのか、皆ずっと分かんなかったんだと思うんですよ。
 劉生の「麗子像」にしても、静物画にしても、形を通して内面に迫るみたいなことがよく言われている。しかし、それは果たして形を通して内面に至ろうとしていたのか? 私は劉生が形というものを、それこそ肖像画のあの皮膚の感じ、そこにシミとか傷があるっていうあの感じを景色として見ていたのかな?とも思うんです。
 そういう点で私は劉生と若干似ているところがあると思うんですけれど、決定的に違っているのは、劉生の場合は作品を作る時に、そこに真っすぐな視線を想定し続けようとしたところですね。それに関しては、ほとんど揺らぎがなかったということです。そこは私とはだいぶ違うと思うんですよね。
 私の場合、形態とか状況とか構造の方により強い興味があって、今回も劉生という人に直接向かっていくのとはちょっと違っている。ただ、それだけだとパロディにしかならなくて、要するに「茶化し」にしかならない。そういうこともあって、今回の作品では京都時代を持ってきたんです。
 私は「あぁ面白いなぁ、全然意味分かんない、この人何なんだろう」っていうのがないと、具体的な個人をモチーフとして扱えないんですよね。そうでなければ、もっと抽象的な、それこそ構造の中で駒になる人物造形をすればいいわけだから。作品の構造の外にある現実的な人や物を作品の中に無理矢理持ってくる場合には、そこには感情移入とはちょっと違うんだろうけど、「あぁ面白いなぁ、全然意味分かんない、この人何なんだろう」という感じが必要なんです。

小林:うんうんうん。
つづく



編集責任:小林晴夫(こばやしはるお)/眞島竜男(まじまたつお)
インタビューの内容をほぼ全文掲載していますが、読みやすいよう、内容が損なわれない程度に加筆編集を加えてあります。つづきは来週の日曜日に、鵠沼相撲|京都ボクシング 4(完結) を掲載します。おたのしみに。

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