菊地敦己のトライアルについて

 4月23日(金)、「GRAFIC TRIAL 2010」(→7月19日/印刷博物館P&Pギャラリー)のオープニングレセプションに行ってきた。グラフィックトライアルというのは、凸版印刷株式会社がグラフィックデザインと印刷のあいだでできる実験企画なのだそうで、今回が5回目、全然知らなかった。このトライアルにブルーマーク菊地敦己が参加していて、彼から招待状をいただいたので、寄ってみたのだ。
 オフセット印刷表現の拡張のための試みという企画意図も面白いし、現在の印刷の限界や可能性が透かし見えて、それだけで十分満足できる展覧会になっていた。試作品やプロセスがわかるようにテーブルに広げられていたのも印刷会社ならではの配慮だと思った。その日はレセプションだったので、参加デザイナー、新村則人菊地敦己、福岡南央子、仲野昌晴、それぞれご本人が作品の説明をしてくれたので、これも「フムフム」とお勉強モードで拝聴した。
 それぞれ面白いところはあったのだが、やっぱり菊地敦己の作品が面白かった。今回のトライアルで菊地敦己が挑戦したのは、一言でいうと、オフセット印刷なのにデジタル製版をしないということだ。だから作品の色面には網点がかかっていない。PS版に画筆ペン、消去ペン、紙やすりなどで、彼自身手によって直接働きかけている。彼はそれに「ハンド・トゥー・プレート」という技法名をつけていた。グラデーションも網点で表現するのではなく、数種のインクを横に並べてローラーにかけるというもの。特に面白かったのは、空間にあたる白をよりマットな色面にするために特色ホワイト(透かしインク+オペークホワイト 8:2)を下地に刷っているところだ。
 「ハンド・トゥー・プレート」にしてもグラデーションのつくり方にしても、ようするに旧来のリトグラフ(石版)による版画と同じ原理なのだが、そのことを現在の均質化したオフセット印刷技術に重ね合わせているところが面白い。「均質化した」と書いたが、昔の版画や印刷というものは、期せずして、そのクォリティーが多様だったのであり、つまり意識せずとも、結果的にさまざま質感が存在していたということになる。しかし現在の高度に整備された印刷のシステムのなかで、同じように多様な仕事をしようとすると、かつては意識していなかったものを意識的に仕掛けていかなければ、得られないクォリティーがあるということだ。
 結果はものすごくうまくいっていたと思う。色面が生きて見えるのだ。4色刷りでつくられた色面は、意味としてのみ了解できるトリックでしかない。そういう多くの印刷物に辟易としていたところに、菊地が示したおおらかな形と色面は、それだけで心を捉えてしまうものだと思った。もちろん美術館にでも行けば、時折できる色の経験ではあるのだが、いまや日常の標準になった印刷物を見る習慣のなかで、こんな経験ができるならば、こんなに素晴らしいことはない。
 20年も前に、マンハッタンのインド料理街で、なんとなく注文したカッテージチーズの練乳漬けを思い出した。ピンク色に染められたそのお菓子は、私が幼いころに夢想していたお菓子の味と瓜二つだったのだ。まさか現実には存在しないと思っていたのに…。今回の菊地敦己の作品に似たようなことを感じたのだ。古いブロードウェイなんかのリトグラフのポスターも大好きなのだが、そういう古いものとも違ったのだろう。こんなポスターがあれば良いのにと夢想していた、まさか現実には存在しないと思っていたポスターに…、私には見えたのだ。
 本人を目の前にして「グラフィックデザインとしては脱臼しているが、物として成立している。」と、言ったことがあるが、やっぱり彼はそんなデザイナーだ。
 ところで、そのレセプションは、凸版の社員とかデザイナーとか、とにかくお仕事でつながりのあるような人々でギュウギュウ詰めになっていて、私などにはとても場違いなところだった。もちろん私なりには結構楽しんではいたのだが、菊地くんに挨拶したら、「なにしに来たの? 意外〜」と驚かれてしまったのには困ってしまった。


こばやしはるお