火曜日/ヌード写真・多木浩二|秦 雅則

まず、本のタイトルを尻、その内容が分からないママにググる。そうすると、偶然の一致や偶然の差異が生まれる。
子供のように、親に偶然似たり似なかったりしながら、尻から生まれる。いや、尻ではないか?アソコは。

アソコはヘソか?





このままでは、なんなんだコレは?舐めているのかと、多木浩二さんと読者に怒られてしまいそうだ。なので、私は生真面目にこの写真について説明していこうと思う。これは、多木浩二さんのヌード写真という本のタイトルと、同じ名前を持つ写真になる。この写真の作り方は、ググールでヌード写真・多木浩二と検索して出てきた画像を、フォトショップの塗りつぶしツールでひと塗りしただけのものだ。なぜ、ひと塗りしたかについては、このヌードになっている女性が、まだ子供で(というか、赤ちゃんで)周りには、大人が買い与えた玩具や、赤ちゃん専用の特殊に小さく柵のついたベットが写っており、それは、私の中でヌード写真と呼ぶにはふさわしくないと感じたためである。私の中でヌード写真とは、写っている者がヌードになっているという自覚を感じさせるもの(それは児童でも構わない)もしくは、そのヌードが人から求められている状態(なおさら、児童のものでも構わないということになる)だと思うからだ。最近、ヌード写真の得に児童ポルノものに対して規制が強くかかっていると聞く。だが、赤ちゃんの画像が簡単にグーグル検索にひっかかるということは、あまり赤ちゃんの写真というものには規制はかけないのだな?と疑問に思った。そうなると、赤ちゃんという超児童は児童ではないのだ。そして、それと同時に、児童には性的欲求を持つ人間がある程度の人数いて、超児童には性的欲求を感じる人間がそれよりも少ないということになるだろう。ただ、少ないということで、児童の乳児(一歳に満たない者)/幼児(満一歳から小学校就学の始期に達するまでの者)/少年少女(小学校就学の時期から、満十八歳に達するまでの者)の区分のなかで、乳児の画像規制はかかっていないのだ。特別に、私が児童愛者を非難したいわけでも、その体制を非難したいわけでもないのだが、不思議な話だなと思う。ここでは、普通に規制が行われ、普通に規制するものを社会に任せて選別しているのだ。そして、その上で私は、この写真(ヘソと肌色ということで人間なのだと理解でき、それ以外の場所を黒に浸食されたヌード写真)を見ながら、ちょっと面白いなと思ってしまう。






きっと、これに性的欲求を感じる者もいるのだろうなと想像してしまって。





はたまさのり (私は動物大好きで有名/ムツゴロウさんと同姓同名だが、写真家。火曜日の朝、アイスコーヒーを飲みながら半裸でダラダラとしている。8時38分)