暇になろうよ(2017_2-3)


ブラック企業と認定された企業に限らず、どういったシチュエーションでも、人に見られていると感じると、長い時間をかけたものの方が価値があるように錯覚するようで、長時間労働というものは、押し付けられているわけでもなく、どうやらそれぞれの人たちが自主的に「仕事した感」を味わうために増長していくものらしいのだ。


最近いろいろな人と喋っていたら、どうも身体が空いたり、退屈を感じると、なにかしらの空間恐怖のようなものが働くのか? それをどうにかして埋めてしまう傾向というものがあることを知った。こうなると、ダラダラと仕事をするどころか、もはや、やることすらないのに「なにもしない」という選択が取れないということ。


「効率」と言ったら、少し聞こえが悪いけれど、仕事なんてものは時間をかければいいというものでもないだろうし、気持ちが入っていたからといって、良い結果が得られるわけでもないだろう。仕事が一番大事という人たちには大きな声では言いにくいが、一生にやり続けなければならないことは「仕事」ばかりではないし、「仕事」とレッテルの張られていないけれど、やらなくてはならないことは、果たして「仕事」ではないのだろうか?


なんでもかんでも「仕事」とか「勉強」と言ってしまったら、今度はどちらもやる気が失せるから、ではなんと呼んだらいいのだろう? どうせやることの中に大事なことと大事ではないことにグラデーションをつけるのがおかしいという話なのだが、安易に優先順位をつけていくと、実はツケが溜まって、結局はコストがかかってしまう。それが現在の経済社会というものだ。


「なにもしない」とか「やることがない」とか「なにをしたらいいのかわからない」とか「そもそもなんにもわからない」というような心持ちは恐怖の対象のようだが、どうだろう?


そういう気持ちとうまく付き合って、そちらの方に時間をかけた方が視野が広がって、より良い考えが生まれていくはず。


だから「余白」のような時間を簡単には「無駄」とは言わずに、逆にそういう時間をつくるために、そのほかの時間を切り盛りしてはどうだろう?


自分の視野で抱えている物事とそれ以外の場所で起こっていることにギャップがあって、いざ外で起こっている深刻な問題に触れるとストレスで行き詰ってしまったり、逆に無理に言語的な接続だけを頼りに「社会性」を装ってしまうことも、きっと「仕事」らしきもので日々を埋めてしまうことと似たことをしているのではないだろうか?


本当は「なんにもない」と思い込んでいる方に、身近に実感できる「社会」が垣間見えるはず。まずは自分の持っている視野の狭さを実感して、あえて暇に耐えてクリエーションに臨みたいもの。


というわけで、心置きなくゴロゴロするためだけに「仕事」、もしくは「アート」をしよう。


小林晴夫(2017.2-3 チラシ掲載)