限界と全力

 2010年3月13日の+nightで行われた、村田峰紀「ノーコメント 村田立学校 村田先生」は、blanClassを小学校に、お客さんを小学生に見立てて、村田峰紀扮する先生による授業を展開した。
 村田先生は常任の教諭というよりも、どこか異邦の地からでもやってきたような招待講師といったところか? 先生と生徒のあいだには通常の交渉は完全に没しているし、そもそもが先生が話すことばは通じない(そういう設定)。
 ノーコメントのまま、授業はスタートする。先生は黒板になおり、はじめはゆっくりと静かに、だんだんと激しく、チョークをボロボロボロボロこぼしながら、文字とも絵とも言い難いものを描く、描く、ときに消しては、また描く。それを生徒はひたすらノートに描き写す。村田先生「ウィ〜ン〜エェ〜ンイェ〜ン」、あごから汗を滴らせ入魂のストロークで黒板に向かい合うこと約40分のパフォーマンス。
 村田峰紀のこれまでのパフォーマンスは大別して「背中で語る」と「ノーコメントで語る」がある。「背中で語る」はオーディエンスに背中を向けて白いYシャツの背中に絵を描く、すると背中は語りだす。ノーコメントとは、口をきかないか、あるいは口がきけない状態(口のなかに画材を放りこんだりして)で語る。なんとかは口ほどにものを言うというやつだ。
 今回の作品は、タイトルにあるように「ノーコメントで語る」の展開にもなっている。教室で教師が黒板に書く内容を、淡々と書き写す学生の姿は、特殊な伝達の風景だ。村田の「ノーコメントで語る」が抱えているコミュニケーションの不確かさに通ずるような可笑しさは共通のものかもしれない。村田が黒板に描いたのは文字ではなく絵に近いものだったし、発せられる声にことばらしきものも見当たらなかったので、そのあいまいさが強調されている。
 同時に「背中で語る」の展開とも言える。Yシャツの背中に絵を描くので、必然オーディエンスには後ろ向きのパフォーマンスになる。教室の先生が黒板を中心に授業をすると、後ろ向きのコミュニケーションが生まれることになって、たしかに村田峰紀の「背中で語る」パフォーマンスの形と似た形になるのだ。
 しかし、1つだけ気になったのは、背中に描くときは、後ろ手に彼の手のおよぶ限界のところでの作業になって、それが「背中で語る」を観るときの醍醐味にもなっているのだが、いざ黒板に向きなおっった作家の身体は外側に開いてしまうので、限界点がおのずと広がり(村田峰紀はがたいが大きいこともあって)黒板が小さすぎたことだ。壁を全面黒板塗料で塗ってしまえば良かったかもしれない。そうすれば描かれたチョークの線が、ストロークの痕跡として、そのまま身体がおよんだところということになる。
 身体の外側にアプローチする場合は、立っている場所を踏まえて、どこまでを限界に見据えて仕事をするかを試行錯誤してみる必要があると感じた。同じような意味で、全力でストロークする、そのさじ加減も気になってしまう。倒れるまでとは言わないが、どの程度の力が全力の行為なのだろう?
 もちろん彼が彼の身体の外に表現の場を広げていく、その試み自体には大賛成だ。どこまで広がっていくか、興味津々である。


こばやしはるお