「リリーは考えた、こういう風に、二人について、いざこざの場面をこしらえ上げたりするのが、世にいう、人々を『知っ』たり、その人たちについて『考え』たり、『好き』になったりすることなのだわ。こんなこと一言だって本当じゃあないの。みんな私のこしらえごとよ、それにもかかわらず、人々を知るのは、こういう風にするものなのです」
『燈台へ』ヴァージニア・ウルフ著/川本静子訳(みすず書房)より
『迷いの森』のことを考えるとき、それについて誰かに話すとき、僕はいつもその言葉を思い浮かべている。
ヴァージニア・ウルフの代表作とされる『燈台へ』は、ある家族とそこに関係する数多くの登場人物が過ごすスコットランドの島の別荘での一日とその後を巡る物語である。ウルフは作者という全てを把握し、描写可能な立場をまるで放棄してしまったかのように、あらゆる登場人物についてを目の前の他の登場人物が知る限りのこととして記す。つまりそれにより、同じ「彼女」のことでも、彼が思い浮かべたり、会話をしたりする「彼女」と別の彼女にとっての「彼女」では異なった印象を伴って目の前に存在することになる。ウルフはそのようにして誰も、自分が知る以上に「彼女」のことを知り得ない、「誰も本当の彼女(それが存在するのかは甚だ疑わしいけれど)のことなど理解は出来ずに、ただ自分の目の前にいる彼女を知るに過ぎない」という、自明ではあるがそれ故に私たちの日常ではもはや誰も気にすることなく、割り切られてしまった現実の条件を浮き彫りにする。その後発表された『波』では、もはや登場人物たちはお互いを目前にしながらもそれぞれのモノローグと、その中での他者に対する推量のみで物語が進んでいく。それは「自分が自分ではない誰かのことを理解するときに、もしかしたらその誰かのことを損ない続けているかも知れない」という他者に対する理解への内省の極北を示しているようにも思える。知り得なさを引き受けながらも、それでも他者に対する思いを止めようとしないヴァージニア・ウルフの取り組み。
ウルフが示したようなことは『迷いの森』を行う中でも、幾度となく繰り返し実感されることとなる。同じ時間に同じ場所で書かれた本、頼りない理解を手掛かりにその持ち主を探して僕たちは歩きまわる。そこでは探す自分も同時に誰かが探す対象となる。拠り所の不確かなことを自覚しながらもそれぞれが繰り返す判断は互いを損ない合い、途方に暮れることもあるかもしれない。しかし、それはやがて自分の自分自身への理解についてをも静かに揺らし、他の誰かの本を渡された時にそれがもしかしたら自分のものであっても不思議ではない、と考えるかもしれない。「世界をそのままとして知ることは出来ずに、我々は貧しい書物をしてその痕跡を辿ることしか出来ない」そのような言葉も思い出される、安寧を得ることのない理解。『迷いの森』はその只中の出来事として行われることになる。
藤村 豪