金村 修/抽象写真

 今週の+nightは、金村修が初登場↓
http://blanclass.com/_night/archives/4390

金村 修 [屠殺屋入門写真編]
写真のスライドと自作の解説です。2000年代の初期を中心にお見せします。


日程:2月5日(土)
開場:18:00 開演:19:30
入場料:1,500円/学生 1,300円


金村 修 Osamu KANEMURA
1964年東京都生まれ。1993年東京綜合写真専門学校研究科修了。在学中にロッテルダム・フォトビエンナーレ「Westland」(オランダ)に出品。1997年、第13回東川賞新人作家賞、日本写真協会賞新人賞を受賞。2000年、第19回土門拳賞受賞。個展に「Black Parachute Ears 1991-1999」(1999・川崎市民ミュージアム・神奈川)、「Chinese Rocks」(2005・ツアイト・フォト・サロン・東京)など、グループ展に「New photography 12」(1996・ニューヨーク近代美術館アメリカ)、「失われた風景−幻想と現実の境界」(1997・横浜美術館・神奈川)、「写真の現在−距離の不在」(1998・東京国立近代美術館フィルムセンター・東京)、第5回ヘルテン国際写真フェスティバル(1999・ドイツ)、アルル国際写真フェスティバル(2004・フランス)などがある。収蔵先は、ニューヨーク近代美術館、サンフランシスコ美術館、シカゴ美術館、東京国立近代美術館東京都写真美術館横浜美術館、その他多数。


 金村氏をお呼びするにあったって、あらためて「Happiness is a Red before Exploding」(2000・ワイズ出版)、「SPIDER'S STRATEGY」(2001・河出書房新社)、「I CAN TELL」(2001・芳賀書店)などの写真集を見た(読んだ)。
 よくよく眺めていたら、いろいろと思いあたることがあって、ご本人との打合わせの際に、いろいろと聞いてみた。
 まずあらためて気づいたことは、それまで金村修と言えば「新宿」だと勝手に思い込んでいたのに、新宿で撮られた写真がほとんど見あたらないことだった。それなのにどの写真もどこで撮られたものかがわからないくらい、似たような印象のエリアが同じように切り取られている。都市のなかに吹き溜まっている雑多なものものの重なりは、たいがい手前が暗くって、奥のほうが明るい。金村は「遠近法なんですよ」と言った。なるほど19世紀フランスの暗い森を描いた風景画にも、手前が暗く奥に日が射した部分を持っている絵が多い。
 金村の写真にはゴチャゴチャにものが入り組んでいたりするから、シンプルに道が向こうに抜けた構図だということに、なかなか気がつかないのだ。
 それにしてもその手前の黒がすごく黒い。モノクロのプリントを焼いていると黒がエスカレートしてしまうのだそうだ。
 そういう金村の写真を見ていて、ある言葉が浮かんだ。「抽象写真」。
 四谷の明るい部屋という企画ギャラリーを中心に猛烈な勢いで写真に働きかけている作家、秦雅則のことを「写実写真家」と呼ぶことにしたのだが、なにもその反語としてのウィットなどではなく、「写真にも写実がある」と、ほくそ笑んでいた私の脳みそに、ちょうどいいタイミングで金村写真がかなり抽象度の高い写真としてスルスルと入り込んできたということだ。
 それは秦雅則の写真について書いたコラム↓
http://d.hatena.ne.jp/blanClass/20101224/1293183461
にも触れたのだが、そもそも写真は抽象的なものだ。その放っておくと抽象になってしまう写真の抽象部分を丁寧に抽出し、削ぎ落としていく作業を秦はしていると考えた。しかし金村の写真はその真逆で、具体的な対象を丁寧に外した、独自のメソッドを守っている。
 そうした写真郡の中にあって、たまに写り込んでいる電柱の住所とか看板の文字などを読んで、場所を特定できたり、できなかったりする。一生懸命に読めるものを探していたら、なんのことはない紙の上に印字された文字を読んでしまっていることに気がつく。まるでパピエ・コレを眺めているときのように、脳内の認識がゆがんで伸び縮みする。
 そうやって気がつくのは、まったく知らない日本の地方都市に放り出されたときの感覚と酷似していること。なんだか知っている街との区別が頭のなかで整理できない。地方の街道沿いの風景なんかも同じだが、その場所を特定する個性がどこにも見当たらなくて不安になる。それはよく知っているはずの街歩きでも時折陥る「ここがどこだかわからない」という感じにも似ている。
 そんなときにどうするかというと、結局標識だの看板だの地図だのガイドだのといった情報に頭をシフトするよりほかはない。
 金村氏は面白いことを言っていた。本当はバライタではなくて、四つ切りくらいのRCペーパーが自分の写真には一番あっていると思っていると言うのだ。作品としての精度としてのバライタ紙のその質でも、金村の切り取るイメージに個別な個性を生み出してしまうというジレンマなのだろう。思い切ってもう少し乱暴な展示をしてみたらどうだろう、なんて思ったりした。


こばやしはるお