消化中のこと(とても私的、注意!!)

blanClass2012-08-27


突然ですが、これを書き始めるちょっと前(結果的に数日前)、私はblanClassの外の階段を降りている時に転けてしまいました。
すねを打ち、腕を打ち、とてつもなく痛いということと、生暖かいコンクリート、いい歳をして転けたことになぜか気落ちしてしまい、しばらくそこでぼんやりしてしまいました。
そして、痛みが悲しいという気持ちを呼び起こすということに、今更ながら気がついたのでした。
ぼんやり座っていたら、じんじんする痛みとともに、命に別状があるわけではないので、これまでの人生とまではいきませんでしたが、ここ最近の見たものや聞いたもの読んだものがグルグル脳裏に浮かびました。
(ただ、インプットはしたがアウトプットしてないのでモヤモヤしてただけという話も)
なんでしょうか、悲しいです。
経験したものを消化できずにいるからです。ただ痛みがじんじんと続くままにさせて、どうすることも出来ないのと同じように。

じんじんしてグルグルしたひとつ、
Nibrollの「see/saw」の公演を見に行きました。
「see/saw」の前に、off-nibrollの一人芝居「a quiet day」も見ました。
会場に入ると、鳥小屋のような小さな家が(小さな家のような鳥小屋でしょうか)30×30列程でしょうか、等間隔に整列して並んでいました。
もうそれだけで半泣きです。なんであんなに並んでいるの?
主役の女の子はその家々の隙間をまたいだりしながら、今の自分の家について、かつて住んでいた家について、近所のお友達の家について、「家」について思いを巡らします。
人は家に住んでいます。
私は常々不思議に思っていました。この、壁と屋根で出来た箱(?)に、毎日毎日出かけては帰ってきてしまうこと、ほっとしたり、居心地よく整えたり、家具やら家電やら備えたりすること、もうそれだけで、何かしてるような気になってしまうこと。それが「人生」だと思ってしまうこと、でもそれは、それを含めて「家」であって、内容ではないんじゃないかと。
だから「家」は取り替え可能で、大切なのは「内容」なので、小さな家々をまたいじゃうんだなと。上から俯瞰して見ちゃうということ。(でもこれは、地方から上京した者の感覚でしょうか?)


「see/saw」は、息つく暇もなく、ぎゅうぎゅう迫ってきます。
当たり前の様に人を突き飛ばしたり、大きな音を立てたり、叫んだり、ちらかしたり、片付けたり。
見ていると、あれ?なぜそうしちゃいけないんだ?むしろそうするべきじゃないの、と思ってしまう程、迫ってくるのです。だって、思わず一緒に叫んでしまいそうでした。
シーソー(see/saw)の様に片一方が上がっているならば片一方は下がっている、私が見たもの、見ていないもの、私ではない誰かが見たもの、均衡を保っているとするなら、それは待機している状態。
多くの場合、どちらかに振り切れてしまうということを、身に染みたじゃないかと言われているかのようでした。
そして、残った方の私はこの公演を見ている。そして、この見ているということが希望だと思ったのでした。

(つづく、、、かも)
あべしょうこ