関西レポート#1|〈私〉の解体へ 柏原えつとむの場合について

 実はこの半年「柏原えつとむ」のことをずっと考えていた。それは「〈私〉の解体へ|柏原えつとむの場合」を大阪でみて、柏原さんとも久しぶりにお会いしてしゃべったからなのだが、blanClassで最近起こっていることを考える鍵になるのでは? と思ったからだ。もっと早くにコラムにアップしようとしていたのだが、少し難しすぎて、今日に至ったというわけ。まだ未完成という気もするが、今年中にケリをつけたいと思って、載せることにした。
 9月の関西旅行では、ほかにも顔を出したので、そのことは、安部さんが書いてくれた。そちらもどうぞ….。


 以前コラムでも触れたが、9月末に関西に旅行に行ってきた。結果、リサーチ旅行のような、観光のような旅になった。
 一番の目的は国立国際美術館でやっている「〈私〉の解体へ|柏原えつとむの場合」を観にいくことと、久しぶりにその柏原さんとビールを飲むことだった(結局ビールでは終わらず、白ワインを2本も空けてしまった)。
 物心がついたばかりの私の記憶のなかには、現代美術の経験が親しげに頭をもたげてくる。実際にはいつなにをいつ見たかがはっきりしないのだが、東京画廊斎藤義重展のおぼろげな記憶、榎倉康二の実験映画上映会の記憶、宇佐美圭司高松次郎のドローイング、旧横浜市民ギャラリーのBゼミ展の微かな思い出や、必ず一人で行っていた「今日の作家展」の印象は、子供の頃のほろ苦い秋の思い出に欠かすことができない。
 そのなかでも柏原えつとむは、私にとって生まれて始めて認識した現代美術作家といっても過言ではない。私にとって、柏原えつとむの作品が最初の特別な経験だと感じてしまうのには、いくつかの理由がある。
 1つは彼が「槇ひろし」というペンネームで書いていた、絵本や童話を読んでいたこと。その頃、柏原氏が毎週Bゼミに訪れていたこともあって、本が出版されると、すぐにサイン入りの本をもらって読んでいた。「カポンをはいたけんじ」とか「ながいながいリンゴのはなし」とか「さかだちギツネ」とか「キラキラ丸の船長さん」とか「くいしんぼうのあおむしくん」とか…(絵:前川欣三)。そのころ柏原さんが児童画教室で子供たちとの対話のなかから生み出されたと言っている一連の冒険活劇!!! 彼の本を「ロビンソン・クルーソー」とか「ハックルベリー・フィンの冒険」とか「ドリトル先生」とか「三銃士」なんかと同じように子供の頃に読んでいた私と同世代の人はきっと大勢いるはずだ。槇ひろしの描く世界には、固定されない自由な意味と、突拍子もない事件が起こる。それは、幼いながらもすでに感じはじめていた、世界にはびこる窮屈な常識を打破する手だてのように見えて、切ないほどの勇気を与えてくれるものだった。したり顔の大人がのたまう道徳にはない、多様な「幸福」の選択が書かれている。子供と一緒につくったったせいか、子供に媚びない世界が展開されていたのだ。
 もう1つは同じ人物の美術作品、「Mr.Xとは何か?」や「方法のモンロー」(これもいつ知ったのかは定かではない)などの印象が絵本とは打って変わって「現代美術は難しいものだ」と私の脳裏に深く刻み込まれてしまったこと。
 さて今回国立国際の展覧会を観て、驚いたことに最初に触れた柏原作品の印象とほとんど一緒だった。やっぱり「難しい」と感じたのだ。「難しかった」のは「現代美術」ではなく、柏原えつとむの仕事のことだった。
 「難しい」というと語弊があるか? 柏原えつとむの仕事には単純さがない。というのも違うか? 「Mr.Xとは何か?」にしても「方法のモンロー」にしても、現れている図像は単純明快で、とても取っつきやすい。その図像が現れるまでの、指示書に目を通して、プロセスを準に考えていく毎に、どうやら頭が混乱してしまうらしいのだ。そうやってもう一度、ただそれらの図像に触れても、もうなんのことやらわからなくなってしまっている。第一印象と辿りつくであろう作品の落としどころまでの道筋がどうにもつながらない。
 同じ頃のアメリカの作家、デニス・オッペンハイムの仕事に、映像で残っている一連のイベントがある。たとえば比喩的に多様なつかわれ方をする概念をオッペンハイム自身のからだの一部をつかって、文字通り再現するのだが、言葉があらかじめ投影していたイメージを大きく逸脱して、独自のロジックを生み出していく。
 ブルース・ナウマンの概念を扱った作品のなかに、動物の身体を、言葉が文節していくようにバラバラにしたあと、デタラメに再統合するという合成樹脂製の作品がある。つかわれている編集技術はまさにいつも言葉がやっていること。言葉とはそもそも切断不能なものでも巧みに切り分け、いかようにもつなぎあわせてしまうものだ。言葉によってつなぎ合わされた世界は、それがどんなにデタラメな状態でも、それなりに様になってしまう。同じことを「もの」でやると、いかれた感じになってしまうのに…。
 これらのコンセプチュアルな仕事の例では、言葉や概念が、厳密な意味を示しているというより、実は、いわば「挨拶」言語と同様な仕掛けで、ツーカーなイメージによってなんとなく扱われているものであり、恣意的にデタラメな操作が加えられていることを、極めてシンプルな事柄としてキャプチャーするという手法で示唆している。
 ところがどうだろう、柏原えつとむの場合は、詐欺にでもあったようにひたすら混乱をしていくシステムだ。
 彼は学生の頃から、逆遠近の絵画を描き、そこで培った技を、さらに騙し絵構造に回収しながら、その騙し絵構造をすら逆転させ、描かれているもののオリジナルの形を特定できないという仕事に展開した。
 「Mr.Xとは何か?」や「方法のモンロー」にいたっては、そこにアノニマスな他者の介在、それらをつなぐ指示とプロセスを加えることで、図像を構成するすべての情報(意味、概念、色、かたちなどなど)を解体していく。こまかく分解されたパーツは、独特なルールによって、再統合を繰り返す。彼の仕事を前にするとき、仕組まれた特異点を辿っていくといつの間にかランダムなループに陥って、もはや始まりも終わりも、主体も客体もなくなってしまう。
 つまり柏原作品は、再統合のされ方自体もズレる毎に、言葉によるブラフ的な世界を、目で見る美術の領域で成立させているのだが、結果、現れた図像は、実は現実によく見る、私たちが住まう世界の像にそっくりになっていく。それは無作為に変形し続ける東京の姿のようでも、複雑化した人間相関図のようでも、現代社会そのもののようでもある。実態であるはずの世の中が、そもそもブラフ構造で設えられているのならば、いっそのこともっと遊んでしまえば良い。
 展覧会タイトルにある、〈私〉の解体とは、当然のことながら、柏原自身にはじまってはいるものの、一般化され、肥大化された意味としての〈私〉という存在のことだ。民主化の仮面を被った、20世紀的超情報化消費化型の権威でありヒーローのことだ。もちろん、神話化されてしまった〈私〉たちの〈芸術〉のことでもある。そこにあるのはただの仕掛けだけかもしれないのに、その「思考」の賜物を共有することを拒んで、どこまでも曖昧な〈芸術〉なる概念を前提にして、「解釈」という幼稚な物語に回収しつづけることで、特別なものに祭り上げてしまったことが、生きたツールとしての芸術を無効なものにしてしまっているのだ。
 さて、最近blanClassの説明をいろいろなところでしなければならない状況が増えてきている。一生懸命努力して説明をしているのだが、全体像としてblanClassで起こっていることを説明しようとすると、どうも本当ではなくなるようなのだ。個別に起こったことを丁寧に考えるならば、そう変なことにはならないと思うのだが、困ったものだ。どこの場所でも、時間制限があるのでしょうがないのだが、どうしてもアートがしてきた「解体劇」のところで息切れしてしまう。先だって今年最後のイベント「真夜中のCAMP/現在のアート<2012>」があった。そのなかでも、「解体」すれば良いってもんじゃない。そこで起こっていることが本当にそうなっているかを見極めなければ….、ということが大事なんだと、再認識したところだ。
 そう思って、いろいろ考えていたら、柏原えつとむがやってきたことが、どれだけ先駆的なのかがわかってきた。アートを「思考のツール」に抱えて試行錯誤しながら、実践を繰り返せば、当然それはアートの領域に収まらなくなるだろう。アートはあくまでも思考の出発点にほかならない。柏原さんは美術を目標にすることを良しとしていない。私もその通りだと思う。その通りだと思うが、それはとても難しい課題だ。
 ただ、どうせ世の中はブラフ構造でできているデタラメな場所なのだから、大いに遊んでしまえとは、思っている。


こばやしはるお