「間が腐る」とは?

今週末、中村達哉さんの「間が腐るまで」というイベントがあります。
このタイトル、どういうことなんでしょう。


ここのところ、読んでいたハンナ・アーレントの『暗い時代の人間性について』の冒頭に「間」についての言及があったのでハッとしたのでした。


– 世界は人間たちの「間 zwischen」にあり(しばしば思われているように人間たち、あるいは”人間”よりもむしろ)その「間」こそが、今日地表のほとんど全ての国において最大の懸念の対象であり、かつ、最も明白な動揺を引き起こす対象になっているのです。
(「暗い時代の人間性について」仲正昌樹 訳 情況出版 )


この中でアーレントはゴットホルト・エフライム・レッシングの思想を読解しながら、運動の自由が自由の中でも最も基礎的なものであるといっています。
思考はいかに世界の中で自由に運動するかを見いだすもの。
活動と思考は運動という形式で進行するので、両者の基盤になっている自由は運動の自由だというわけです。
そして、運動が制約される社会では、一時的だとしても思考の自由へと退却する現象が起こることがある、但し、ここで行われる思考の自由とはあくまでも自己(内向)に向かうものではなく、自立的思考をする他者たち同士の対話に向かうことなのです。
そしていかなる対話や自立的思考によっても、どんな秩序に回収できないものが世界だというのです。
そしてその世界がなければ、人間は人間らしく生きることは不可能なのです。


この本は、では人間性とはどういうものなのか、「間(世界)」を永続させることのできる他者同士の関係を「友情」という観点からの考察へ進むのですが、常に問題は、自由であることと現実を獲得するということなのです。


自由は、何にも寄らないとても厳しいものでもあります。
このような社会では、常に正しい側でいたいという願望が現実をシャットアウトしてしまうという落とし穴もあります。
同情やセクト化は他者との距離がなくなり、「間」を収縮させてしまうのです。


もしかして「間が腐るまで」ということは、死ぬまで自由に生きるということかもしれない。その実践の為の運動なのかもしれない。 ( まさに中村さんは長時間動き続けるのだから )
それとも自由でいさえすれば、間は腐ることはなく持続する、その反語なのでしょうか。


勝手に妄想が先走ってしまいましたが、中村さんがやろうとしていることとつながっているような気がしています。
どんな対話が起こるのか、そこで起こっている現実に自由に関われるのか、とても楽しみです。


中村達哉[間(ま)が腐るまで]
日程:2015年7月16日(木)開場:18:00 開演:19:00
17日(金)開場:18:00 開演:19:00
18日(土)開場:16:30 開演:17:30 +公開インタビュー
※各3時間ほど(途中入退室可)
入場料:2,000円(ワンドリンク)