WHERE THE WILD THINGS ARE

 例によって試写会を観てきた。今回はスパイク・ジョーンズ監督作品「かいじゅうたちのいるところ」(2009 Warner Bros 1h41min)、同名の絵本「かいじゅうたちのいるところ」(作・絵:モーリス・センダック、訳:じんぐう てるお、冨山房発行)を実写映画化したもの。
http://wwws.warnerbros.co.jp/wherethewildthingsare/
 Carter Burwell、 Karen O and the Kidsの音楽も相まって、ものすごくセンチメンタルな映画だった。エフェクトが最小限だからなのだろう、ロバくんとか、ケロヨンとか、カータンとか、ガチャピンやムックみたいに、そのまんまの感じが、自分の子どものころの記憶を刺激する。彼らもスタジオから一歩外に出るとなんとも言えず切ない後ろ姿をしていた。ケロヨン音頭の「人生いろいろあるけれど」という歌詞もすごかったが、ロバくんにいたっては、江の電かなんかに乗って生き別れた母を探すなんていうショートムービーがあった。なんであんなに切ないものを子ども向けにつくったのだろう?
 久々に子どものころの気持ちを思い出してしまった。家の裏山の崖に何時間も膝を抱えて座ったりしていた。なんであのころはあんなに孤独だったのだろう? 思い出すと胸が締めつけられる。こういう子どもっぽい主題の映画を観ると、なんでもかんでも泣いてしまう私は当然のことながら泣いてしまうのだが、同時にひとしきり罪悪感のような気持ちに占領されてしまう。まったく大人になれていない気がするからだろうか?
 子どもがみる世界を主題にした映画はたくさんある。「かいじゅうたちのいるところ」を観て思い出したのは、クリント・イーストウッド監督作品の「パーフェクト・ワールド」。どちらも孤独な少年と大人になれない「かいじゅう」との心の交流が描かれている。そしてなにか取り返しのつかないような喪失感がある映画だ。
 ウッディー・アレンシドニー・ポラックの言葉を引用して「映画を撮るために必要な引き出しのすべては幼少期にある」というようなことを、どこかで言っていたと思うのだが、本当にそれでいいのだろうか? 大人になりたい私と大人になれない私は、納得しつつ、やっぱり罪悪感に襲われる。
 テリー・ギリアムだったら絶対に夢落ちのところだろうが、この映画は違う。違うからこそ、とてつもなく寂しい。そのせいか、いつのまにか子どもにではなく、いまもどこかで泣いている「かいじゅうたち」に感情移入していた。子どものころに幸運にも心の交流を果たした現代美術な「かいじゅうたち」みたいに、私もなってしまったのかしら?


小林晴夫