音楽映画

 先週の土曜日(2月13日)は、安野太郎(作曲家)が+nightに初登場。「音楽映画」のシリーズから第一番(山手線)の上映、第三番(名古屋)の実演、第九番(合唱)の上映を観ながらトークをした。(ほかに方法マシンの「サーチエンジン」、「P2PFTP(パワートゥーザピープルフリーチベットプロジェクト)」などを上映した。
 1月にプライベートで安野氏と呑んだときに、「生の演奏」でも「録音された音源」でも両方とも「音楽」と呼ばれている。ほかの複製芸術は「版画」「印刷」「写真」「映画」とそれぞれに別の形式として確立しているのに、「音楽」と「録音芸術」の差別化がはっきりとしていない、ともに同じ「音楽」として認識されてしまっていると、嘆いていた。両者は「全然違うものなのに」と、安野氏は言う。「なるほどなぁー」と、私。
 「音楽映画」の第九は、「Cream」での本番前夜、リハーサルを観させてもらった。その一連の「音楽映画」を思いついたきっかけはあるか尋ねてみたところ、「アルバイトの途中で風景のなかの雑踏を眺めていたら、ふと、音楽のように見えた」と言っていた。「ちょうどそのころ音声系統の壊れたビデオカメラを持て余していて、このプロジェクトに最適なツールであることに気づいた」とも言っていた。
 目から入ってきた経験から安野氏は「音楽」を想った。これは面白いと思った。もしかするとそれは音楽の原初的な動機のそれかもしれない。しかし純粋に「音楽」が語られたとき、「音楽」は「聴覚の芸術」とレッテルされてきたのではあるまいか。
 沖縄はコザのライブハウスで大島保克島唄を聴きにいったことがあるのだが、海の唄は船酔いするようなグルーブ、森の唄は東北地方の木やり唄などと一緒でカンカンと音が切れていくようなリズムを持っていた。それを聴いて、古い音楽はやはり自然を模写するものだと、感心した。
 茨城県ではいまでも春先に野鳥を捕まえ、軒に鳥かごをぶるさげて、小鳥の鳴き声と姿を楽しむ「いにしえの文化」が残っている。ちょっと違うが、バリ島には街なかの野鳥を捕獲したのち鈴をつけて、また同じ街なかに放つ「音を楽しむ文化」があるそうだ。
 通常の世界では、見えている世界と聞こえている世界は切り離せない。現実とはとても不純な状態である。



小林晴夫