眞島竜男:鵠沼相撲|京都ボクシング 2

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ゴールデンウィーク中にパソコンが不調だったため、日曜日に掲載予定だった「眞島竜男インタビュー:鵠沼相撲|京都ボクシング 2」(2010年1月16日)の掲載が大幅に遅れてしまいました。お詫びいたします。




2部構成と舞台装置


小林:1部と2部、1919年(大正8年)と1929年(昭和4年)、2部構成にしたわけですが、そのコントラストというか、どういうイメージをもって2つに分けたのでしょうか?

眞島:今回の始まりは…まぁ今回に限らないんですけれど、作品(朗読パフォーマンス)が終わった後に、「すごくシンプルな形」というか、漠然としていますが「具体的な広がりのある塊の感じ」みたいなものが残るようにしたいと考えていました。

小林:それは始める前に?

眞島:始める前もそうだし、美術家として作品を作る時に、そういうところから始めることが多いです。今回は、当初私が劉生のことをよく知らなかったということもあって、「岸田先生、いい加減絵を描いてください、拳闘なんか見てふらふら遊んでちゃダメですよ!」っていう、劉生が京都でボクシング観戦にうつつを抜かすというイメージが最初にあったんです。当初はそういう感じだったんですが、色々と調べるているうちに私の中でそれが変わっていった。
 劉生の京都時代と言うと、「肉筆浮世絵の研究はやったけれど、日本画をぼちぼちやるくらいで、あとは散々遊んで、書画骨董にはまって、茶屋遊びをして、遊郭に通って、ろくに絵を描かなかった」というのが一般的なイメージですね。そういうことを知って、私の中でボクシングの意味合いが変わったんです。「うつつを抜かして遊んでいる」というイメージがクルッとひっくり返って、ボクシングが再び絵画(油絵)に向かっていくための契機になった。その「クルッとひっくり返った」というのが結構大きくて、結果的にこんな舞台装置にしたんだろうと思うんですよね。

小林:あぁ、舞台装置の説明をしなきゃならない。ちょっともう一度ルミネチューブを点灯してもらって再現をしてみましょう。まずここだけ(中心の水平になっている正方形のルミネチューブを指して)にしてください。まずどうなっているかを説明すると、3段階に分かれて配線がしてあります。この中心の正方形はつねに点灯しています。下が点くと(中心の正方形の4つの角から足のように4辺伸びている下部のルミネチューブが点灯)、こうなると土俵のイメージ。上が点くと(同じように中心の正方形の4つ角から上に伸びている上部4辺のルミネチューブが点灯)ボクシングのリングのイメージ。このルミネチューブの切り替えだけで場面が転換するというそういう装置でした。

眞島:あと、京都は盆地だからね。

客:大文字焼っぽい.

眞島:小林:うん、そうだね。

小林:この装置の話を眞島君に相談されたとき、僕はフランシス・ベーコンの絵を思い出したんです。光の線が人物の周りにフレーミングのようなかたちで存在する。 そんな図をイメージした。今日、暗い室内でルミネチューブのフレームのなかで眞島君がソフト帽をかぶり、肩にタオルを掛けて朗読している姿を見て、やっぱりそんな感じだなぁと思いました。



日本近代美術とスカトロジー


小林:眞島竜男さんの作品を皆さんがどれくらい見ているか、ちょっとわかりませんが、この日本近代美術物と少しスカトロジーなお話が混ざりあうみたいな世界は眞島作品の1つの王道なんですよね。

眞島:王道というか癖? 「病気は治せるけど癖は治らない」というのは、おすぎさんかピーコさんが「おかまは癖だから治らないのよ!」って言ってたみたいなことで(笑)、「スカトロ趣味と近代美術好きは治んないのよ!」っていう感じなんですね。今回はそういう意味では、すごく正直な作品になっちゃったなぁと思います。

小林:眞島君の作品に「楽しき国土」というビデオ作品があって、それは武蔵野で、独立美術の画家たちが、キャンプかバーベキューなんかをしながら、やっぱりそういううんこの話とかを生き生きと喋る。真剣にそういう話をするビデオ作品があるんです。いろんな方面に衝撃をもって受け取られた作品なんですが、僕も眞島君に最初にあったころに見せてもらっています。それ以降の日本の近代美術物っていうと?

眞島:準備しているものはあるけれど、直接に作品の形になったものはまだないですね。だからこれが2つ目。



北京行、画室の窓


小林:2000何年だったかな? 谷中でやったサマーセッションで、公開で参加者と一緒にパフォーマンスをやるっていう授業がありましたよね。「北京行、画室の窓」、あれも梅原龍三郎の日記?

※ Bゼミサマーセッション イン 谷中「おくゆきの限界点」2002年8月26日-31日/谷中会館 初音ホール/眞島竜男ゼミ「北京行、画室の窓」8月28日昼
眞島:日記です。1939年に梅原が北京に最初に行った時の日記を抜粋して…

小林:朗読と映像、というか色面と絵とドキュメントされた写真のスライドを3面で展開して、真ん中で眞島君が朗読をしている。周りで参加者が、あれはなんだっけ、質問するんだっけ?

眞島:梅原龍三郎が北京に滞在していた時に、しょっちゅうくっついて歩いている人というか、よく梅原を訪れる人がいたんです。例えば、「○月○日、朝○時、朝飯を喰ってから○○に出かけることにする。○○君来る。共に出掛ける」と書いてあったら、「○○君来る」と私が読んだところで参加者に「梅原先生ー」と呼び掛けてもらう、という変なことを要求して…

小林:そうそう、そういう授業があったんですね。ワークショップというか、それはビデオでは残っているんですけど、作品として発表したものではないんです
よ。



北京日記の東京バージョン


小林:もう1つ、個人的には去年ですかね? ご飯をおごってもらったんだよね。

眞島:それは今進めているプランなんですが、梅原龍三郎の1939年の8月10日〜9月24日の行動を自分でやってみようと。私はそういうことを「トレース」って呼んでいます。それで、北京にはパッと行けないので、取り合えず東京で似たようなことをやってみようと思って、最初の2日間を「トレース」したんです。8月11日の日記に梅原が北京ダックで有名な「鹿鳴春」というレストランに行って「美味かった」と書いているので、インターネットで調べてみると「鹿鳴春」という店が銀座にあるんですね。やっぱり北京ダックで有名な…もちろん北京の「鹿鳴春」の名前を取っているんだと思いますが。それで、梅原が「○○君××君と鹿鳴春へ行く」と書いているので「誰か一緒に行ってくれないかなぁ」と思って、まぁ小林さんに…

小林:あれ前日かなんかじゃなかった?

眞島:えっと当日です。

小林:当日かー…。

眞島:何しろノープランで始めたものだから、どこまで出来るかなぁという。

小林:突然電話があって、これこれしかじかで中華料理をおごるので来ませんかと…。

眞島:「作品になった時に『小林君』って書いていいですか?」という条件で…「いいですよ」って言われたので、「じゃあ、お願いします」と。えーっと、秋葉原の2号店なのかな、銀座の1号店よりも広くて綺麗で新しいところなんですが、まぁ、そこに行ってフカヒレのコースを一緒に食べてもらう、ということをしました。

小林:僕と安部さんと3人でご飯を食べるという…。

眞島:レストランに行ってご飯を食べるだけなんですけどね、やってることは。



戦前/終戦/戦後


小林:その近代美術をネタになにかを表現するというのは同時に眞島さんの普段の好奇心でもあるということでしょうか?

眞島:普段の好奇心っていうと? 何についての好奇心でしょうか?

小林:なんて聞いたらいんだろう? 普段から持ってる日本の近代美術への向学心というのか好奇心というか…。

眞島:あぁ、そういう興味もあるんですけど、何て言ったらいいのかな? 美術に限らず日本の近現代史って、必ず第2次世界大戦、要するに「終戦」で分けられて理解されている。そこで軍国主義から民主主義に変わったという…。もちろん私は戦前戦中に生まれていたわけじゃないし、私の父は終戦時に疎開していたという話は聞きましたが、実体験があるわけじゃなくて聞いたり読んだりっていう知識しかないんですが、「終戦」でスパッと切れたという実感を、どう考えても持てないんですね。
 例えば、ソビエト連邦がなくなってロシアになりましたよね。けれど、ロシアというのはやっぱり同じような政治機構を踏まえた上で、少しずつ開放しつつ、なおかつそこからちょこちょこはみ出しつつやってきているじゃないです。戦前の日本は軍事、戦争っていうのがあったから大政翼賛会で挙国一致でやってたけれども、戦後はそれが経済的なところにスッとスライドして、戦前を「トレース」するような形で続いている、という印象の方が強いんです。そんなにスパッと変わったという印象は持てないですね。もちろん、はっきり感覚的に変わった部分が大きくあるのは認めるんですよ。けれど、そうじゃなくて、底に流れている部分はどうやら変わらずにあるんじゃないかなぁと…。興味ということで言えば、そこが興味のあるところですね。

小林:じゃぁ、そこがテーマというふうに考えていいんでしょうか?

眞島:うーん、かな。テーマの1つ。
つづく

編集責任:小林晴夫(こばやしはるお)/眞島竜男(まじまたつお)

つづきは来週の日曜日に、鵠沼相撲|京都ボクシング 3 を掲載します。おたのしみに。


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