サウンド・エンカウンター/多田正美

 私の45分ほどのパフォーマンスは、映像として記録され簡単に見られるようになっています。それを見て何を立ち上げるのか、そこから得るのかです。あの2階の床のフワッとした感じは独特でした、その床に水が溢れて滑りながら300本ほどロープで繋げた細竹を、身体に巻き付け音の響きの中に入ると、既成にあるものの何かを超えてしまったかのような感じがします。誰がやってもそうなると、私は思うのですが・・そのまま立っては跳ね、振り回しては倒れる自由でしようか、言葉を失う気持ち良さもあります。細竹とロープ、それを結わいたもの300本。枯れた細枝を手にして空切ると、そこに空気があることを知ります、空気とはそうでもしないと見えない。20キロくらいの丸石を転がし両手で持ち上げる、持ちきれなくなって手を離す。自分も転がって見るけれど、丸石より重いのに良い音がしない…。
 音は純度を上げる為にあります、音楽は環境に他なりません。それらが、あの場で、どう感じられ起こり、広がるのか。実験とか、偶然とか言うものでは、既にないものです。では何かですが、頭を柔らかくして周りを眺めて見るのです。話がいつも飛んでしまうようなのは、それが遠く手が届かないにも拘らず、全ては私の身体の中にあるのだと気づきます。ひとつひとつの集めた素材は、最後に残ったものであり、出来合のアイデアとか言うものではありません。それは何なのかと問うのです、電子音はけっして新しくはないもので、それらはひとつひとつ即興的なもので結びつけると、「生きて」来るのです、その間に自分が居るのだと気がつきます。
 インタビューは、1時間以上になってしまい、あれで良かったのか、その場に投げかけられたものに応えていたのか分からなかった。一方的でなく、話が出て来てそれを話すやり取りが、もっとあったら良かったかもしれません。新しいものは、可能性が常にあるのです。過去からのものにも、また全く新しいものに今でも出会います。何だろう、未だに途上にあるのです。
 「祝う芸・説く芸・語る芸・商う芸・流す芸」など放浪芸の面白さにあったものを、若い人たちのパフォーマンスに感じたのです。そういう時代の前触れかとも思いましたが、知らずとも起こるものはやって来るかもしれません。現代のアートにそれを見ようとすると面白く見えて来ます。そして、西浦の田楽のような世襲制で行われて来た環境・場では、何が行われているのか、新たなアートが見え隠れしているように、過去は未来からやってくるのです。こうだというのでは決してないのです。多くの感性人間が出会う場であることを願います。
 放浪芸は生活がかかっていて、シビアな部分もあると思います。客集めもシビアにしないと行けない、戦略も練らないと行けないかもしれません。


ライブ補足説明…
 演奏の中で、背景に使った空の映像のことを言い忘れました。あれは、家の屋根に取り付けた固定ビデオカメラの映像で、日の出から日暮れまで1年程、タイマーで映像電波(UHF15CH)を周囲に飛ばしていたものの録画です。映像は半径200メートル、音だけなら1000メートルは直線で聞こえていました。ライブの背景として使ったのは、今回初めてです。


ただまさみ