熊野#7  祭る力|多田正美

 日本の祭りとは何だろうか・・。「祭る力」を、雨の中の火祭りで体験して来た。祭り当日、神楽も露天商も街の中には一切なかった(それは神殿も社もない以前の祭りだった)。男だけが白装束に荒縄を固く腹に巻き付け、白いものだけを食して参加する、それは男たちで興され最終的に、女が重要な役目を果たしていることに後で気づく(素晴らしいと思った)。ヒノキ材で作られた五角形の祈願奉納松明を手に神社を巡り、神倉山の急な石段を上がった先に、海が見渡せる絶景と巨岩がある元宮に辿り着く(それは社ではなく大きな巨石の方にある)。古代の人々が感じたその神域に、次々と白装束の男たちが押し寄せ狭い傾斜した岩盤境内に、籠って待ちながら雨と寒さ、何も変わらない岩盤とゴトビキ巨石(地元の方言でヒキガエル)を見上げながら、祭りとは何なのかと考える・・。
 日本に古くからある巨石に対する自然崇拝。熊野信仰の出発点でもあるそこは、真っ直中の磐座(いわくら)の場でした。雨が降ろうが寒かろうが、1400年以上何も変わらないその磐座で執り行われる体験。その境内全体の岩盤が神聖な場であり、依り代なのだと気づく。巨石がヒキガエルだとすると、それは太陰的原理つまり太陽に対してそれは月を表していること、月に棲むと言うヒキガエルが死と再生を表していることに関係している。それが、どう人々の世界観になっていたのだろうか興味は尽きない。神殿も社も常設されない以前の巨岩に大きな力を感じた「祭る力」のそのままを再現する祭りだと思った。大きな巨石の上に、背を下にし体を横たえ乗せると、常世(とこよ)と現世(うつしよ)を、言葉を超え体感した経験が若い時にあった。人とは足が宙に浮くと、誰もどうにも出来ない「物」でしかないと感じる私的経験。物がこんなに固いのかという実感(人は柔らかく出来ていて、足を地に着け立っている生き物)。精神的な原点がそこに確かにあったと思う。それらに直接に触れてみるということの大切さ。古いネパールで学んだ祈りとは、その依り代に手を直接触れること・体の一部を直接触れることで、共にあることを願うだった。それは、手を合わせて神仏を合掌する以前の形ではなかっただろうかと今も思う。それは宗教とかではなく、宗教こそがその宗教的体験を妨げている・・。
 この情報の時代にあっても、分かったことより分からないことの方が実は多いということ。体が本来持って開発して来た感覚機能が、衰えて来てはいないだろうか・・。カミを神体である磐座から降臨させ、それを依り代として祭りの中心を神殿に移した。(その元宮を下に持って来て速玉大社を「新宮」と呼んだのは知られたことである) それ以前の人々の祭りを、そこに戻っては年に一度執り行う。カミが巨石そのものであり、山そのものが神社だった・・。そこに神の火が男達により神域で起こされ、ヒノキ(火の木)の火が男たちによりもたらされて広がり、境内が神の火の中に燃え盛る頂点が来た時、門が開き一気に神の火が神域から走り下りる。今度は、それを無事に戻ることを待つ女たちの眼に突然出会う、女たちの眼なのだ。それは同じ白装束で「祭る力」を体験して持ち帰った直後で、間違わないように大切な人を見逃さないようにする、その女たちの眼に出会うのである。その火を家に持ち帰り、新たな神の火で家を灯し家族の無事を祝ったとされている。
 雨は降っている・・。火打石から大松明に点火され一度下に下ってから火が戻って来るが、あいにくの雨で神の火は広がらずに燻ってしまう。くり返し火が下からもたらされるが、寒く雨で体力消耗する中・・ホラ貝が吹き鳴らされ、山門の扉は開かれてしまう(火で満たされる前に)。祭る力-立ち上げること、暗がりの中で刹那を強く思う。すると雨は一時止み、ヒノキ材に一旦点いた火の勢いは尽きるまで良く燃えた・・。その明かりは広がり火の有難さを知り、それに照らされて、何とか無事地上に辿り着くと今度は雨降る中、大切な人を探すたくさんの女たちの眼・・。その対比の不思議さに、刹那を乗り越えて来た歴史を感じた。
 数えきれない神の火が、山から一気に下って女たちの待つ地上に運ばれるイニシエーション。水と火、昼と夜、男と女、生と死、月と太陽、日常と非日常。昔はそれらが切実に、より身近に感じるものとしてあったと思う。祭りは、そこにではなく、何故か大陸へ半島へと繋がって感じてしまった。あの見えた海の向こうにはどこに繋がっているのだろうか・・雨であっても風が吹こうが、寒くても熱くても「祭る力」を感じる、それは暗くなく明るい甦り儀礼であり、清々しい実に不思議な祭りだった。(2012年2月6日、和歌山県新宮、神倉神社 / お燈祭り)



文・写真:ただまさみ(音楽家