外島貴幸《背中を盗むおなか》(2016)公開インタビュー風景 撮影:小林晴夫
作品と主体
河口:今回、外島さんがこれまでに挑戦したことのないことをやってみませんか、とお願いしました。最初の打ち合わせの段階で、外島さんから、ずっとモヤモヤしている、でも、なかなか作品に結びつかないものがあるというお話をお聞きしました。
外島:基本的に、ジェンダーというテーマが、扱いたい問題としてはあったんです。ただ、その場合の難しさというものがあって。自分と作品との間に距離がとれなくなるというか、個人的なことが入ってくると、作れなくなるので。今回もわりとそのあたりの大変さはあったんですが。
ただ、作家とは、何かを作ることとは、と考えてみた場合、例えば、何らかのマイノリティーの作家がいたとして、作品がある。その作品は一見するとそのような問題とは関係がないように見える。でも作家がマイノリティーであることが、実はその作品のメッセージ、背景にあります、みたいな論理があるとして。勿論それは正しい場合もあるのですが、その論理を逆転させると、作品の持っているメッセージは、実はもっと広いというか。作家の方が作品の特殊な例にすぎないと言うこともできる。つまり作品の方が、作家の個人的な問題をより普遍化している。その辺が重要というか、やっぱりそこなんだなっていうのが、ひとつ自分をテーマにするときにありましたね。
小林晴夫(blanClassディレクター):今の外島さんの発言は、「アートの周辺で、作家の在り方やアイデンティティーと社会的なテーマがステレオタイプにつながってしまっている」ということを指摘していると思うんだけど、焦点が作家個人に戻ってくると、それはあくまでも個別なケース、あるいは特殊なケースなはずだよね。でも実際は「彼がそういうアイデンティティーを持っているから、そのマイノリティーを代表して作品化をしたんだ」という、ある種のレッテル貼りをして了解したような気になってしまうことが多いのかもしれない。ようするに、外島さんは、そういういい加減な認識に対して抵抗をしてるんだと思う。「私が私である」とか「誰かが誰かである」って特定してしまうのは、なかなかの暴力だってことですよ。その姿勢は、今回のパフォーマンスのカテゴリーにしていた「ジェンダーチェイシング」という不思議な言葉にもあらわれていて[註]、読み取ろうとした端から、読み取ったはずのものが解体されていくような作品だった。これは感想でもありますが…。
だからもしかすると「ジェンダー」って言うからいけないんじゃないかな? 社会的にも、もうちょっと個別なアイデンティティーの在り方があるというのが、外島さんが抱えてる問題提起だと思うんだよ。さっき外島さんが、「腐女子」ってチラッと言っていたけれど、多様な個人の在り方は、対外的にも頭の中でも、何重にもなっていて、ジェンダーでも区分けしきれない気がする。たとえば、外島さんが黒板に書いた図[写真]では、自分の個別な名前、記号みたいなものがバラバラに解体されていくわけでしょ。その曖昧なアイデンティティーが、イマジナリーフレンドみたいなものとの対話を通して、さらにバラバラになっていくわけじゃないですか。
ここは以前Bゼミっていう学校みたいなところだったんですが、外島さんは実際に、同じようなシチュエーションで3人くらいの講師の前で、講評会を経験しているんですね。かつて講評に間に合わなくて焦ってた外島さんと、今回またもや作品が間に合わない外島さんが入れ子になってパニックになってる様を演じている。だから時間的にも解体作業は行われていて、かつての「外島貴幸」と現在の「外島貴幸」も加わって、括弧付きの「外島貴幸」のアイデンティティーがどんどん増えていく。それを全部こう、丁寧に並べてみる…。みんなが共感できるものかわからないけど、正直、見ていて怖くなった。
[註]
《背中を盗むおなか》の告知には「コント、パフォーマンス、ジェンダーチェイシング」という形式を表す言葉が付されていた。続く解説は次の通り。「自分と物を私から盗み返すためのいくつかの方法。/「背後霊がとり憑いている人に対して背中を向けたら、それは背後霊と呼べるのだろうか?」(自作「やさしいウィトゲンシュタイン」より)」。
発言者A:パフォーマンスの中で使われている黄色については何かありますか? いわゆる青と赤の男性、女性を表す、トイレなどに使われるサインが壁に貼られていますが、黄色いクッションもそのそばにあリました。
小林:ああ黄色が目立つね。
外島:最初、赤と青で、黄色はなくて、わりとやけに社会的な男女の色で。でも黄色を入れることによって三原色という、別の分類、レイヤーに開きたかったんです。
発言者A:社会的な性、ジェンダーを意味する色が形式的に扱われている。そうした中で、自身の名前も黄色で黒板に書かれていたのが象徴的に見えました。確か、いろいろな紙を貼り付けていたテープの色も黄色だったと思いますが。
言葉と物
発言者A:前半部は、「外島貴幸」の所有物たちが「外島貴幸」について語る体を取っています。実際は外島さんがそのつど立場を変えて物の姿を借りて語っているわけですが。後半部は、主に、ある種の指示を伴う言葉によって物を動かすことに外島さんが行使されている印象を受けました。
外島:物の見え方をどのくらい変えられるのか、ということも試みとしてはあったんです。最初ペラペラと喋ってるのが、だんだんとこう、ただ扱われるだけの存在になるとか。
発言者B:結局、道具たちも外島さんの一部だったことが、“中間領域”に向かうことによって、ほのめかされるかたちで終わったのかなと思いました。控え室という、男女どちらの徴も貼ってある中間領域に向かっていったのかなと。「外島貴幸」という紙を付けた、背広が最後トコトコ歩いて……。
外島:それは、たしかに。最後、僕も入るし。道具、物が喋る、または物に転移する、というようなことは、個人的なジェンダー問題などよりも、例えば主体について広く捉えることができるのでは、という考えもありました。作品内においても、自分が物のなかでの特殊例になっていく、というプロセスがあっても良いのではないか、と(または、ご指摘のように、物が「自分」の特殊例だったと、言いかえることもできるように思います)。ただ、全体の構成としては、見えづらい部分もあったかもしれません。
発言者C:物を動かすルールは結構、厳密に決まってたんですか?
外島:そう、そこは厳密というか。
発言者D:なんで言葉のルールで物が動くのか。ちょっと僕は、逆にすごくリアルだったのは、その前に外島さんがウロウロしてたときに、バンッて栓抜きとか蹴っちゃった、とか、コケそうになってる、みたいな。なんか、さっき喋ってたソイツがまた、ゾンザイに扱われてるみたいな……。
小林:振る舞いが雑だから(笑)。
発言者E:言葉は厳密だけど、行動がね(笑)。
外島:という訳で、今日もみなさんが私の代わりに沢山喋っていただいて、ほんとうにありがたいことです。メガネよりも、遥かに僕は何も喋れなかったけど。
[2016-05-14収録]
※本稿は、パフォーマンス後に行われた公開インタビューをもとに構成・加筆したものです。
トランスクリプション:河口遥
編集協力:印牧雅子