今年の2月、TPAMフリンジ参加作品として、昨年に引き続き高山玲子にお願いをした。
高山玲子は演劇という形式を足場に主に俳優として活動してきたアーティスト。blanClassでは、2017年からあえて最終的なフォーマットを決めないような制作方法を模索しながら、極めて実験的な上演を行ってきた。
TPAMの本体が舞台芸術の専門家たちの交流が目的の催しということもあり、2018年に2年ぶりにTPAMフリンジに参加するにあたり、舞台芸術+blanClassならではの多ジャンルなコラボレーションへの挑戦を期待して、彼女に出演をお願いしたのだった。
昨年(2018年)は「ゴーストライター」というワークショップと演劇の上演が別の階層にいながら、同時に行われるといった試みをした。コラボレーターは、アーティストの荒木悠が同時通訳としてかなり重要な役が任された。ほかに、撮影が福井琢也、衣装に高橋愛(suzuki takayuki)が参加している。また訪れた人々も観客というより、ワークショップの参加者としてなくてはならない役割を果たすことになるので、半強制的にコラボレーターになる。
まずはその参加者たちがそれぞれ自分が生まれてから死んでしまうまでの人生を用意された用紙に記入するというワークショップから始まる。そこに書かれた最後の部分、つまりそれぞれの「終焉の時」を本人に朗読してもらい、荒木悠が英語で同時通訳をする。日本語から英語に翻訳されるテキストを元に、別室にいる高山によって上演が試みられる。その様子は参加者たちのいる会場に同時中継されている。
トランズレートされた、個々の参加者が思うそれぞれの「終焉」のイメージを、テキストだけを頼りに参加者たちの身体とは異なる演者が再現をするというのが、彼女が自身に課したタスクなのだが、会場に充満している雰囲気を遮断したような状態で、別室で演じている高山だけが、その雰囲気を共有できない。この実験に訪れた人々は観客という立場ではなく、いつの間にかその場を形作る重要な役割を担うのに比べて、その場の空気は高山には届かないのだ。
「ゴーストライター」とは、通常、名前を出している著者の代わりの影の著作家のことだが、高山玲子版「ゴーストライター」では、参加者自身の未来の終焉を文字化すること、その朗読を英語に同時通訳する翻訳者のこと、さらには本人にの代わりに演じる高山自身のことも比喩している。つまり終焉を迎えた後の「ゴースト」に成り代わってテキストを書き、翻訳がなされ、演者が演じることで、すでに死んでしまった人々やこれから死んでしまうだろう人たちの「ゴースト」たちをあぶり出そうとする試み。
果たして「ゴースト」たちは現れたのだろうか? 参加者たちは未だに「終焉」を迎えず生者として、そこにいるわけなので、その「ゴースト」自体は、すでに死んでしまった人たちと同じようにやはり不在のままだったのではなかっただろうか?
今年(2019年)の「ハイツ高山」は、40分程度の演劇がループ状に上演され続けられるというものだったのだが、4日間の公演はそれぞれ5時間から8時間の長丁場で、思ったように切れ目のないループ上演は不可能で、断続的に始まっては終わり、ひとしきりお客さんと交流するという流れになった。また「ハイツ高山」でも、装置に新美太基、撮影・編集に前澤秀登、ドラマターグ・翻訳に中田博士、グラフィックデザインに一野篤という新たなメンバーでのコラボレーションが実践された。
「ゴーストライター」では、高山が演じた「終焉」は誰かしら人間のものだったが、「ハイツ高山」では、建物の「終焉」を高山が演じるという試みになった。
「建物」とはblanClassの建物のことだが、その「終焉」は少し先に訪れるであろう、この建物の「終焉」。blanClassの活動が今年の10月で小休止するという告知をした後だったので、実際に訪れるであろう終わりと重ねて示されたフィクションの「終焉」だった。
この建物の記憶ですと言って小冊子が手渡される。そこには年表のような物語が書かれていて、読んでいくと、きっと本当のことなのではと思ってしまう。blanClassはその昔、Bゼミという現代美術を学ぶ寺子屋のような場所だったので、そこで本当にあったことが少しだけ脚色されているのかもしれない? などと思うかもしれないが、全くのフィクション。読み進めていくとここに住った女主人の物語のようで、実は建物自身の物語が描かれている。
観客はその小冊子に目を通しながら、目の前で高山玲子による独演が繰り広げられる。パフォーマンスは40分間で一周する照明が照らし出す年代ごとに、冊子に描かれた物語が演じられる。上演回ごとに、差し替えられる部分もあり、テレビのゲームショーのようだったり、簡単なワークショップなどが観客の参加型で行われた。その中で1度、これら「ゴースト」シリーズを制作する発端となった、近しい演出家の死と、長年一緒に暮らしていた猫の死について触れた。現実に彼女をおそった自分以外のものの「終焉の時」に立ち会った経験が、この実験へと繋がったのだ。
「ゴーストライター」と「ハイツ高山」共に、あらかじめ形の決まったやり方をなぞるのではなく、とても抽象的で行き先が不明な状態から出発をしている。それぞれユニークなコレボレータたちと、実際に装置を動かしたり、ビデオで撮影をしながら、その都度できることやその効果を確かめながら、ちょっとずつ行き先を見つける作業が繰り返される。おそらくこの2つの試みの手前にぼんやりとした形で彼女が抱えたものが、現実に起こった突然の不在感だったのではないだろうか?
場というものは、立ち現れては消え、また立ち現れるもの。それは芸術のようなものも同じで、ふと立ち上がっては、わりとすぐに死んでしまう。どこかしらに遺物のような痕跡としての作品はあり、そこからいろいろと察することもできるので、そうしたものは死守しなければ…と長年思ってきたのだが、私自身の周りで確かに起こったはずの芸術のようなことは、その瞬間に立ち会わなければ、露のように消えてしまう。昔ある人に私の活動が酷評されて、夏草のように現れるが、夏草のように枯れてしまったと書かれたことがあったが、また少し時間が経って、また夏が来れば夏草のように生えるもの。死んではまた生き返るのもアートの理なのだ。
でもしかし「ハイツ高山」が思い起こさせてくれたのは、そういう意味での「終わり」や「死」ではなく、本当にこれでおしまいといった、後戻りができない現実の「終焉」のこと。
高山さんの愛猫が亡くなった、その少し後、わが家の愛猫も予期せず亡くなってしまったことも重なり、その取り返しがつかない誰かの不在をあらためて思い知ることになった。
こばやしはるお
★TPAMフリンジ2019参加作品
インスタレーション・シアター|高山玲子[ハイツ高山]
★TPAMフリンジ2018参加作品
演劇+WS(自由参加)|高山玲子[ゴーストライター]