吉川 陽一郎/伊礼 卓司/高士 真一 [Relief in me, relief in you.]

今週の+night↓
http://blanclass.com/_night/archives/1885

8月21日(土)
吉川 陽一郎/伊礼 卓司/高士 真一
[Relief in me, relief in you.]
開場:18:00 開演:19:30
入場料:1,000円/学生:800円

テーブルの上での小さなアクション。鉄の積み木のようなもの/吉川
2人で対戦するゲームのようなもの。さまざまなモノを使います。制限時間あり/伊礼
過去、現在、未来、をクロスして見せるような提示。テーブルクロス引きの映像を使います/高士


 彫刻家吉川陽一郎が初心に戻り、新人のつもりで若手彫刻家、伊礼卓司と高士真一と一緒に挑むのが今回のパフォーマンス。
 吉川はこれまでにも多くのパフォーマンスを試みている。しかし、そのパフォーマンスを直に見たものは、それを記録する写真家のみ。何度かその写真を紙媒体に示したことはあるものの、人前でパフォーマンスすることはなかった。ほかにもドローイングのような姿勢でつくり続けているレリーフや日記のようにつけているドローイングつきの作品リストなど、独特なベースワークを密かにし続けている。
 それというのも彫刻というものの本質が作品の手前にある、感覚(五感)や経験の集積としての記憶、それらに必要に応じて関係づけられる言葉などによって支えられていると、彼が強く考えているからだ。
 どんな物事でも、放っておくと、かたちやイメージ、制度といったものに回収されてしまい、そのことを前提に、優等生の認識図が形成され、ありとあらゆることが形骸して本質が埋没してしまうというのが社会である。埋没してしまっているからそのことはなかなかに気がつきにくい状態が恒久化されるので、常識とか標準とかいったものは無作為に編集されてしまっているのが現状なのだ。
 2009年10月21日、・武蔵野美術大学9号館地下大展示室でおこなわれていた「美しい誤読」というタイトルの展覧会を見にいった。それは、武蔵野美術大学大学院彫刻コース、吉川陽一郎特別演習の展覧会だった。
 この展覧会に出品されていたものは、共通の特徴があって、モチーフやテーマが過去に一度制作されたそれぞれ自身の作品であるということだった。「自作を目の前に置いて、その構造、質感、量感、佇まい、在りよう、といった、表現の手前にあって表現を支えているものに注目する。」とは展覧会の覚え書きに吉川氏が書いた文章の一部。既存の自作品をあたかも他人の作品かはじめて見たもののようにあつかって、そこにある問題を分析するという、とても教育的なプログラムだった。
 出てきた学生たちのアプローチも、それぞれに秀逸だった。(のちにステューデントナイトに参加してもらった人もこのなかにいる)。しかし、私が気になったのは学生たちと対等な位置で作品を発表した吉川の作品だった。それは双眼の装置で作品を眺望するという、作品の成り立ちや視ることのメカニズムを考えさせる作品であったのだが、自身の過去の作品を他人事のような眼で見るという課題にあって、彼はその課題すら他人に課された課題のごとくに向き合っていた。
 理想の教師像のようにも思えるのだが、彼はきっと教える目線から、若いアーティストの目線、そのように考える目線に辿り着いてしまったのに違いない。投げかけた課題は作家の身に降りかかって、その後の吉川作品がドンドン面白くなってきているように思う。
 今回、一緒に参加する、伊礼卓司と高士真一の両人は、吉川の考える彫刻や作品というものに、近い考え方を持っているのだと、吉川は言う。コラボレーションやユニットではないのだが、3人は対等に話し合い、今回の+nightに臨む。


こばやしはるお