猫と暮らす 

この時期、毎年、8月の6日と9日の間、そして15日までの間。
ただその日を待つことだけで過ごしてしまう日。
早く早く、気が急いてしまう。もっと早く終戦して欲しい。
このジリジリしたなんとも言えない感じ。
同じように感じている人もいるだろうか?
そして、考える。なぜ人はこんな事をしてしまうのか。


ちょうど最近、アフリカのサイが、密猟者によって角を切り取られ、瀕死のところを保護され、切り取られたところに別の部位の皮膚を移植できるか獣医師たちが苦戦しているドキュメンタリーを見た。
そしてまた、保護区にいながら、首をかられたライオンのニュースも。
なぜこのような事が起こるのか、なぜこのような事ができる人間が生まれるのか。


私は2匹の猫と暮らしている。
猫は、日本語を話さないし、私も猫語を話す事ができない。
それでも猫は猫なりに私に話しかけてくるし、私もそれに答える。
「起きて」「お腹が空いた」「撫でて」「遊んで」「毛づくろいして」「外を見たいからこのドアを開けて」「ついてきて」「トイレを掃除してちょうだい」「ゴキブリとったから見て」などなど翻訳すればこのようなこと。
1匹目の猫が来てからしばらくは出入り自由にしていた。
猫は勝手に好きな時間に外へお散歩に行き、ご飯の時間になると帰ってくる。
けれど、外には車も走っているし、他の猫もいる、危険な人間だっているし、近所の庭で用を足してトラブルになることもあるからと病院で聞き、外に出さないように閉じ込めてしまった。
こんなことをしていいのだろうか?避妊手術をした時にも思った。
猫の同意もないのにこんなことして、よくないに決まっている。私のエゴだ。
そんな解消のしようのない矛盾を抱えながら、私は猫と暮らしている 。
それでも猫たちは、私を信頼してくれているとも感じるし。
共生しようともしてくれている。
(少なくとも、毎朝私を起こすために肉球で頬をたたく代わりに、その手に隠れている鋭い爪で、私の動脈に穴をあけようとはしない。)


コンラート・ローレンツは、文化の発展が人間の生活条件の中に非常に速かな革命的変化をおこし、人間の本能の適応能力は機能錯誤を起こしていると言っている、そのせいで起こりうる危険や災いを、せき止められるのは、人間の理性にかなう「責任の意識」にほかならないとも。
ボタンを押すだけで、人差し指を引くだけで、多くの命が失われることを本能的に理解していたとしたら、その責任に人が耐えられるのだろうか?
人はこの大変な変化の中で複雑に出来上がった社会に、まだ対応できていないのか?
(対応できている人間がいるだろうか?)
何かいい方法はないものか。
猫と暮らしながら考える。