ことばとからだの間で考えること(2018_6-7)



ここのところ、blanClass の周辺で、ことばとからだの接続を一から見直すようなパフォーマティブな作品が気になっている。


例えば関川航平の説明ともラップとも異なるようなことばを喋り、からだがそこに絶え間なく対応していくようなパフォーマンス、たくみちゃんのことばの音の響きや書が持っていることばの形などを基軸に怒涛のように溢れ出していく饒舌なからだの動き、関真奈美がチャレンジする、ごく基本的なからだの動作を、超アナログな方法でプログラミングしたことばとして動作する人に伝達、そこで収集された情報はオペレーターに戻り、目的を達成していく試み、中村達哉はカミュの小説「最初の人間」の全文を書き写すところから、拾い上げられた描写を基に、踊りに変換するダンスワークなどなど…。


実際に出てきた作品が語っていることは、抽象度が高いので、そのことばとからだの関係が、こなれた先に、どんな内容を語り出してくれるのかは、まだ未知数だけれど、今なぜ、そんなところからつくり直さなければならないのか? 作家たちのモチベーションが気になる。


blanClass を始めてから10 年足らず、政治的な問題や社会的な課題にできるだけ近づいてアプローチしたり、目の前の状況に悶えながらも、足踏みしながらでも考える姿勢を示すような表現に多く触れてきた。


その延長なのか、あるいは反動なのか、ここにきて、ことばにならないような経験を掘り起こしては、極めて抽象的なものに変換していくような態度が多く現れてきているように思う。その中にこうした、ことばとからだの接続を一から見直すような作品や作家がちらほらいる。


最近、東大中央食堂に飾られていた宇佐美圭司氏の手による壁画が処分されてしまった件が、ツイッターなどを賑わしていたので、彼が描くべき「身体」を獲得した、その経緯を思い出した。


経緯とは、宇佐美氏が若かりし頃、真っ白のキャンバスに向かううち、なにを描いて良いか途方に暮れ、彼の言葉によると「失画症」に陥り、それでも画布と格闘する中、ふと筆を握る自らの右手を見出し、右肩から筆を握る右手までを描く対象として獲得したという話。その後、ベトナムから死体袋に入って、戦死者のボディーが日本を通過している事実を新聞の記事で見つけて以来、見えざる身体、その意味上のネットワークが彼の生涯のテーマになり、身体を描く根拠にもなっていく。それは宇佐美氏が作り上げた特殊な言語だったかもしれないが、今回の事件を知って、一度は機能したであろう言語が、風化してしまうその瞬間に立ち会ったような気がして、なんとも言えない気持ちになった。


その宇佐美氏の身体の再発見と描くことの意味の符号と、前述のことばとからだの新しい関係づくりが、重なっているような気がしてきた。そもそもプライベートでもパブリックでも、そこに置かれたからだは「政治性」や「社会性」をすでに持っているはずなのに、それぞれのからだの形をことばに区別するときに、使われることばが足りていないように感じるのだ。特殊なことばがはどんどん風化して、一般化していくことばは、原型をとどめないぐらい、どんどん紋切り型になっていく。


あからさまな束縛や拘束ではないにしろ、なかなか自由な振る舞いができず、ことばやからだが窮屈になってしまっているのが、現状のポピュリズムの本質という気がするのだが、どうだろう?


現在進行形で生成されている新たな特殊な言語が、逃げ場としての抽象行為にとどまらず、より自由で豊かなことばとからだの関係を獲得した後には、「私」に縛られている「表現」の可能性をもう少し開いた形に置き直して、さらなる自由を獲得して欲しい。


こばやしはるお(2018.6-7 チラシ掲載)