コミュニティに代わるもの(2019_6-7)

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先日、あるアーティストと話していたら、「ブランクラスはコミュニティだと思っていた」といわれた。そういえば、以前から何人かのアーティストに同じような問いかけや指摘をされたことがあるのだけれど、私としてはblanClassの活動を「コミュニティ」だと思ったことはない。

 

あるいは、私自身が集団に帰属することが苦手すぎるので、目の前に「コミュニティ」なるものが現れたら、一目散に逃げてしまうかもしれない。

 

みんながいっている「コミュニティ」というのが、旧来の村的な「コミュニティ」を意味するわけではなく、もう少し軽いつながりのことを指しているのはわかっているし、人が集まる「場」をつくることを意識して運営をしてきたので、ここからコミュニティ的なつながりが生まれてくることに抵抗があるわけではないのだが、単一の「コミュニティ」が生まれることを望んでいたわけでもない。

 

blanClassは、アートに限らず、形式やジャンルがどんどん細分化され、共有できるはずの問題意識が、それぞれのセクトを超えて擦り合わされず、すれ違ってしまっていることへの危機感から、いろいろなバックグラウンドを持った人々が、まざり合ったら良いと思って運営してきた。だから、どちらかというと同時多発にいくつもの関係が生まれるようなイメージを持っていた。

 

それはネット上にいる「管理人」的な役割に近いイメージ。そこに私が介入してはいけないのでは? とさえ思ってきた。そのせいで、そっけない態度に見えることもあっただろうし、側から見ると閉じているように見えたかもしれない。

 

blanClassで起こった、答えが見えないような問題に対して、アーティストたちの作品には至らない、しかし切実な試みのことを「友達以上、作品未満」と表現したことがあった。「作品未満」というところに比重を置いたフレーズだったが、ダジャレのように手前に置いた「友達以上」にも、馴れ合いではない大人の関係への期待が込められていた。

 

現実の「場」はとても小さくて、どこからも近いところではないので、blanClassが当初理想としていた「場」になったかどうか、未だはっきりとはしないけれど、その時々に確かに個人と個人のやり取りはあった。その意味においは、思っている以上に面白いことが起こっていたような気もする。そんな「コミュニティ」には決して回収され得ない、個人に根ざしたそれぞれの関係は、これからもきっとそれぞれに一人歩きしていくと思う。

 

小林晴夫(2019.6-7 チラシ掲載)