映画の場合

 ハプニングやイベントの流れにある、いわゆるアートパフォーマンスにおいては、アーティスト自身の身体そのものが作品として提示されていることが多く(あるいは彼ら自身のからだで直接確認する世界といったほうが相応しいかもしれない)、監督とか主演という範疇で語られるべきものは少ないだろう。
 また考えてみれば、演劇やダンスの世界では主演で監督(振付け)というのは、当たり前のことだし、映画の黎明期には、チャーリー・チャップリンバスター・キートンを筆頭に、そういう監督はたくさんいた(香港映画の黎明期? のジャッキー・チェン、サモハン・キンポ、マイケル・ホイなんかもそうだし、幻の韓国映画アリラン」の天才ラ・ウンギュも主演・脚本・監督を務めている)。
 映画の場合に「主演監督」といって、忘れてならないのはオーソン・ウェルズウッディー・アレン、ジョン・カサベテス、メルヴィン・ヴァン・ピーブルス、マリオ・ヴァン・ピーブルス、エドワード・バーンズなどだ。演出家の自意識が虚偽と現実の狭間で役を演じさせているといったらいいのか? 誇張された本人の演ずる役柄が不思議なリアリティーになって観るものを魅了する特異な映画人たちだ。
 映画人は、それぞれに異なるバックグラウンド(絵画、写真、脚本、編集などなど)を背負っている。上にあげた人々の力点はあきらかに役者の演技に置かれている。
 シルヴェスター・スタローンのように、役者としてのステップアップに最初の段階からセルフプロデュース(脚本・監督を含む)が欠かせない俳優(マット・デイモンもその一人)もいるが、ここ20年あまりトップスターが自ら主演する映画のメガホンを握るという、ハリウッドの一つのスタイルが確立している。一発目でアカデミー賞を取ってしまった、ケビン・コスナーメル・ギブソンをはじめ、ジョディー・フォスターアル・パチーノティム・ロビンスティム・ロスエド・ハリスショーン・ペンロバート・デ・ニーロジョニー・デップジョージ・クルーニーなどなどがそれで、これまでに積み上げてきたそれぞれの役者としてのイメージ(超然的だったり、ヒロイックだったり)を批判的に飛び越える意欲作が多い。そして演ずることへの真摯な取り組みが涙ぐましいばかりだ。
 逆にジャン=リュック・ゴダールフランソワ・トリュフォーシドニー・ポラックスパイク・リークエンティン・タランティーノのように、脇に入って異様な存在感で自身の映画にゆがみを与えてしまうとんでもない監督たちもいる。
 最近とみに評価が集中しているクリント・イーストウッドは、上にあげたどの要素も兼ね備えたハイパーな主演監督だ。「ローハイド」でブルーアイ・ヒーローとしてデビューし、マカロニウエスタンや「ダーティーハリー」で屈折しているが、しかし超然としたアンチヒーローを確立した自身の役者のイメージを、自身が監督する作品では徹底的に壊し嘲笑すらしている。そうすることによって、さらに善悪のどちらにも添うことのできない人間の葛藤が描かれている。イーストウッドに限らず監督が自身の映画に出演するとき、「主演=ヒーロー」という図式が壊れ、映画に「主演監督」という手法でしか得られないリアリティー、奥行きが生まれる。
 日本映画でも勝新太郎をはじめ北野武竹中直人が監督をして映画史に山場を与えている(最近では日本でも「主演監督」は普通のことになりつつある)が、80年代に、その下地ともいうべき日本映画の転換を果たした伊丹十三は、なぜ役者としてのアイデンティティーを自身の監督映画でも貫かなかったのだろう? もし主演、もしくは出演していたら、あんなにわかりやすい勧善懲悪映画ばかり撮らなかったのではないだろうか? そしていまごろもっと評価を受けていたし、死なずにすんだのではないだろうか? などと考えるのは私だけだろうか?



小林晴夫