2010年5月8日(土)の+nightはchaka「.jpg」だった。「無数のweb写真〈画像〉をつかった写真を見るための実験」と銘打っておこなわれた5時間強の催しは、コラボレーション作品ではあるが、「web写真」という共通の出発点に立った、それぞれ別個の作品として提示された。
まずは嘉義拓馬のケース。会場正面に据えられた5つの机の上にそれぞれラップトップが置かれているというインスタレーション。それらにはそれぞれにヘドフォンが備え付けられていて、見る人は椅子に座りヘッドフォンを着用して鑑賞する。脈絡なくめくられていく画像には、それぞれの写真に便宜的につけられた共通の名前がある。Googleのサーチエンジンによって検索された「画像たちの名前」であるところのキーワードは「1.jpg」「2.jpg」「3.jpg」「4.jpg」「5.jpg」。ゆえにラップトップは5台。ヘッドフォンからは、それらの画像が貼られているサイトのアドレスがオートリードソフト(Voice Over)によって読み上げられている。画像が流れている時間はこの音声の長さと一致するように編集されている。
波多野康介のケースは、壁に大きくプロジェクションされた。1枚が6秒、5時間で3053枚のweb写真がスライドしていく。写真の出所はpicasaという写真共有サイト。検索したキーワードは200ヶ国の国名(1部都市名)。とりとめがなくなるので、人が写っている写真に限定し、各国15枚ずつをチョイスしていったという。
当日、お客さんとしてみえた東京綜合写真専門学校の講師の先生方からは、痛烈な批判が彼らに浴びせられた。私も半分はその先生方と同じような感想を持った。というのは、彼らが示したweb写真の状況は、すでに知っていたし、見る前に彼らの意図のほとんどがわかってしまい、見ることが確認作業になってしまうという点だ。そのうえ彼らが指摘している、端末で眺める写真は写真ではなくて画像に見えて、漫然と繰り送るだけのものと化す、という指摘(嘉義と波多野では多少意見は異なりそうだが)も、デジタル化される前から、写真とはそもそもそういったものだったではないか、と言わざるを得ない。
昨年のイラン大統領選の混乱なかでtwitterやyoutubeによって非報道陣による(すべての外国人報道陣が閉め出されていた)市民からの直接的な発信が多数あった。目を覆いたくなるような写真もあったが、特に気になったのは映像のなかでデモ隊が手に手に携帯電話をかざしていたことだ。これはもちろん写真や動画を撮る姿でもあるのだが、同時に自分たちの身を銃弾から守る手段でもあった。「ペンは剣よりも強し」ということばがあるが、「携帯は銃よりも強し」ということだろうか?
もちろんwebとて、すべてを自由にする万能なものでもないだろう。中国のGoogle問題も耳に新しいし、住む場所によっては自由な主張を世界に発信できるわけでもなさそうだからだ。それでもインターネットは、旧来のマスメディアの限界を遥かに超えて開かれた「誰でもが発信することができ、また誰でもが受取ることのできる」メディアへと進化している。
web写真はchakaが指摘しているようにとりとめなく眺められている以外に、もうちょっと複雑に実社会を変化させているのが現状なのだ。ただ、前述の先生方の拒否反応には、逆に好印象を抱いた。その作品が未熟なせいにしても、あるいは相手がどんなタイプにせよ、どんな理由であっても、拒否反応が起こるのは悪いことではない。chakaが、web写真にもう1歩でも2歩でも突っ込んだら、類を見ない表現が生まれるかもしれない、という兆候でもあるからだ。
こばやしはるお