「場時盗風:美術館のものを奪う計画」/計画作成者:高嶋晋一_1/「奪ったあとでいかに使うか」についての計画

「いかに美術館のものを奪うか」の後か前に来るであろう問い、「美術品を収奪したとしてその美術品をどうするのか(奪ったあとでいかに使うか)」についての計画。


【1:最後から二番目の顔】

「もうこれ以上、人の顔を見ることはしない」と決めた者にのみ許される使用法。人に会うことをやめた後でも、なお自分が見たいと思える顔が描かれている肖像画を、見つかるまで探す(異性でも同性でも可、ただし一枚のみ)。奪った後は、一切他人の姿を見ることのない隔絶した環境に住み、その肖像画の顔を自分を映す鏡の代わりにする(つねに見えるところに設置する)。肖像の視線がこちら側を向いているか否かは、選択の際に、特に熟考の余地あり。写真や絵、その他の描かれた顔、ならびに動物の顔も、住居に持ち込むことは不可。鏡も一切見てはならないが、鏡自体は捨てずに厳重に梱包した上でしまっておく。自分の顔よりも肖像画の顔の方が思い出しやすいほどの時間が経過し、死期が訪れたら最後に鏡を取り出して、それに映った自分の姿と肖像画の顔とを見比べてみる。収奪以前に見た他人の顔の記憶が豊富でない方がよいため、なるべく若年のうちに実行することが望ましい。


【2:究極の芸術至上主義者】

レンブラントの絵を一枚のアイロン台として使うこと」という、有名なデュシャンのアイデアがある。このアイデアをさらに徹底させる。まず、自分の生活上の所有品を30個に絞る。その所有品に対応する、それの代わりになるような美術品を30個探して、各々を各々と交換する(不等価なので当然強奪という形になる)。例えば、デュシャンの《雌のイチジクの葉》をタバコ代わりに吸ったり、ラウシェンバーグの《消されたデ・クーニングのドローイング》を鼻紙代わりにしたり、ブランクーシの《無限柱》を物干し竿代わりにしたりするというように、それらの美術品のみを使用してそれからの生活を送る。対社会的には、それが実行者にとって最後の交換(交換の打ち止め)であり、ゆえに金銭は(その使用方法は交換であるから)もとの所有品30個の内に含まれぬこととする。おそらく、比較的食べやすい美術品とそうでもない美術品があり、衣服にしやすい美術品とそうでない美術品があるだろう。背に腹は代えられぬ。もともと現実逃避の代替物に過ぎないのだから、存分に代替すればいい。それら自体を使って解体・加工することは可であり、30個の美術品のなかでなら組み合わせて用途を増やすことができる。要するに、美術品に事欠かず、日用品に事欠くという世界をつくる。こうした状況下においても、なお美術品が生まれるとしたら、それはどのような(意味で)美術品なのか?


【備考:私的使用について】

美術品を手に入れたからこそ、できることとは何か? まず、所有することで「見ること」以外の別の行為を、美術品に対して行使することができる。いくらでも直接的に手で触ることもできるし、それを解体し改変してもいい。自分の一部として取り込みたいがために、食べることだって可能だろう。その気になれば、それを破壊/破損させたり、汚したり捨てたりすることもできる。あるいはむしろ破壊とは、「所有」という行為に不可避的につきまとっていることなのかもしれない。ただ所持しているだけでは所有にはならず、それについての何らかの権限をも有することで人は所有者となるのだし、結局のところ所有者の最大の権限とは、それを破壊してもかまわない(所有される側の生き死にを握っている)ということに他ならないのだから。
しかし、美術品の故意の破壊は往々にして、象徴的な意味を否応なく付加される。それは紙幣を燃やす行為などと同様の、公的な価値に対する侵犯・冒瀆的なものである。確かにその行為は、当事者に特異な快をもたらす。だが、その原理的な欠点は、破壊(の暴力)は創造(の暴力)に勝てないということに尽きる。いくら破壊しても「それが創造された」という事実は破壊できない。「創造は破壊に時間的に先行する」という創造の絶対的な優位性を覆すような類の完全犯罪であればともかくとして。ブレヒトも言うように「銀行を設立することにくらべれば、 銀行強盗なんてかわいいもの」なのだ。
これは、美術品という公に認可されたものを、私的に所有し尽くすことの難しさを示唆している。厳密な意味で私的に美術品を所有するためには、その美術品にのみ可能な使用法でそれを使用すると同時に、所有しているこの私にしか可能でない使用法でそれを使用する他はなく、その価値に見合うか、もしくはそれに拮抗した行為が必須となる。
そして実のところ、私的所有(占有)ということの実効性を考えた場合、所有者の権限(権利)よりも、行為する(使用する)義務の方が最後まで生き延びるはずである。なぜなら、権利は権利を持つ者だけではなく、当人とは別にそれを認める者がいなければ成り立たない(他者の認可/合意を必要とする)のに対し、義務は自分以外の誰もいなくとも、その所有物に対して生じるものだからである(自分の身体という所有物のことを念頭に置くとよくわかる)。公に依拠しえないにもかかわらず「義務」が問題になる地点において、すなわち、第三者からは身勝手で利己的に見えるにもかかわらず、当事者にとっては課せられたものであるような行為において、「私的」ということもまた問題になるだろう。


たかしましんいち